『後漢書』孝霊帝紀を読んでみよう:その4

その3(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/03/24/000100)の続き。





二年春正月丁丑、大赦天下。
三月乙巳、尊慎園董貴人為孝仁皇后。
夏四月癸巳、大風、雨雹。詔公卿以下各上封事。
五月、太尉聞人襲罷、司空許栩免。
六月、司徒劉寵為太尉、太常許訓為司徒、太僕長沙劉囂為司空。
秋七月、破羌將軍段熲大破先零羌於射虎塞外谷、東羌悉平。
九月、江夏蠻叛、州郡討平之。
丹陽山越賊圍太守陳夤、夤擊破之。
冬十月丁亥、中常侍侯覽諷有司奏前司空虞放・太僕杜密・長樂少府李膺司隸校尉朱㝢・潁川太守巴肅・沛相荀昱・河内太守魏朗・山陽太守翟超皆為鉤黨、下獄、死者百餘人、妻子徙邊、諸附從者錮及五屬。
制詔州郡大舉鉤黨、於是天下豪桀及儒學行義者、一切結為黨人。
戊戌晦、日有食之。
十一月、太尉劉寵免、太僕郭禧為太尉。
鮮卑并州
是歳、長樂太僕曹節為車騎將軍、百餘日罷。
(『後漢書』紀第八、孝霊帝紀)


宦官は李膺らを「鉤党」として処分。彼らは竇武や陳蕃に引き立てられたり、彼らに弁護されたりした経歴の持ち主である。つまり、これは桓帝の時の「党錮」の続きであると共に、竇武・陳蕃排除の続きであるのだろう。



なお、この時に捕まっている荀昱は後漢末(三国魏)の荀攸の祖父の兄に当たる。



(曹)節病困、詔拜為車騎將軍。有頃疾瘳、上印綬、罷、復為中常侍、位特進、秩中二千石、尋轉大長秋。
(『後漢書』列伝第六十八、宦者列伝、曹節

なお、曹節が車騎将軍になってすぐ辞めたというのは、おそらくは重病になっていたための「思い出昇進」とでも言うべき昇進だったが、病気が癒えて復帰できたために元の官に戻す、という事だったのだろう。


桓帝の時の宦官単超などが病気になってから車騎将軍となり、翌年死んでいる。同じ措置という事だ。