『漢書』成帝紀を読んでみよう:その13

その12(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180406/1522940542)の続き。




鴻嘉元年春二月、詔曰「朕承天地、獲保宗廟、明有所蔽、徳不能綏、刑罰不中、衆冤失職、趨闕告訴者不絶。是以陰陽錯謬、寒暑失序、日月不光、百姓蒙辜、朕甚閔焉。書不云乎?『即我御事、罔克耆壽、咎在厥躬。』方春生長時、臨遣諫大夫理等舉三輔・三河・弘農冤獄。公卿大夫部刺史明申敕守相、稱朕意焉。其賜天下民爵一級、女子百戸牛酒、加賜鰥寡孤獨高年帛。逋貸未入者勿收。」
壬午、行幸初陵、赦作徒。以新豐戲郷為昌陵縣、奉初陵、賜百戸牛酒。
上始為微行出。
冬、黄龍見真定。
(『漢書』巻十、成帝紀


成帝、「微行」を開始。



かつて武帝もやっていた、そして後に後漢の初代も行ったという「お忍び」である。

(張)放為侍中中郎將、監平樂屯兵、置莫府、儀比將軍。與上臥起、寵愛殊絶、常從為微行出游、北至甘泉、南至長楊・五莋、鬬雞走馬長安中、積數年。
(『漢書』巻五十九、張放伝)

先是有童謠曰「燕燕尾涏涏、張公子、時相見。木門倉琅根、燕飛來、啄皇孫。皇孫死、燕啄矢。」成帝毎微行出、常與張放倶、而稱富平侯家、故曰張公子。倉琅根、宮門銅踣也。
(『漢書』巻九十七下、外戚伝下、孝成趙皇后)


成帝は微行の際には寵臣の張放(張湯・張安世の子孫)を連れ、その張氏の家の人間であるという事にしていたらしい。つまりめ組に対しては徳田新之助を名乗っていたというようなものだ。


「長楊・五莋」というのは武帝が最晩年にいた離宮であり、「闘鶏・走馬」というのは宣帝が皇帝になる前に嗜んでいた事である。つまり成帝は武帝や宣帝に倣おうとした、という部分があったのではなかろうか。




それにしても、大司馬大将軍の王鳳がいなくなった途端に微行を始めるというのは、少々露骨と言えなくもない。


逆に言えば王鳳がいた時は成帝は自分の好きなようには出来なかったという事なのだろう。