分枝の時

昨日の朱氏の話について、以下のような意見をいただいた。




朱氏出自曹姓。顓頊之後有六終、彦六子、其第五子曰安。周武王克商、封安苗裔俠於邾、附庸于魯、其地魯國鄒縣是也。自安至儀父十二世、始見春秋。齊桓行霸、儀父附從、進爵稱子、桓公以下、春秋後八世而為楚所滅、故子孫去「邑」為朱氏、世居沛國相縣。
前漢大司馬長史詡生浮、字公叔、大司馬・大司空・新息侯。生下邳太守永、永九世孫吏部尚書尚、尚生質、司徒。質二子、禹・卓。禹、司隸校尉・青州刺史、坐黨錮誅、子孫避難丹楊、丹楊朱氏之祖也。
(『新唐書』巻七十四下、宰相世系表四下、朱氏)

なるほど、沛国朱氏から丹楊朱氏が出ているというのが、おそらくは朱氏の公式見解であったという事らしい。




つまり朱治らの朱氏も朱鑠や朱建平と同じ血統だと。



枝分かれしているが、よくよく考えてみると党錮の禁が契機だとすると、朱治の系統と朱鑠・朱建平の沛国朱氏が枝分かれしてから思ったより時間は経っていない。せいぜい分枝から二代目ではないか。




まあ、丹陽朱氏となる系統と沛国に残った朱鑠や朱建平がすでに結構離れた血統だった可能性も大いにある。