『三国志』文帝紀を読んでみよう:その10

その9(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/02/02/000100)の続き。





六年春二月、遣使者循行許昌以東盡沛郡、問民所疾苦、貧者振貸之。
三月、行幸召陵、通討虜渠。
乙巳、還許昌宮。
并州刺史梁習討鮮卑軻比能、大破之。
辛未、帝為舟師東征。
五月戊申、幸譙。
壬戌、熒惑入太微。
六月、利成郡兵蔡方等以郡反、殺太守徐質。遣屯騎校尉任福・歩兵校尉段昭與青州刺史討平之。其見脅略及亡命者、皆赦其罪。
秋七月、立皇子鑒為東武陽王。
八月、帝遂以舟師自譙循渦入淮、從陸道幸徐。
九月、築東巡臺。
冬十月、行幸廣陵故城、臨江觀兵、戎卒十餘萬、旌旗數百里。是歳大寒、水道冰、舟不得入江、乃引還。
十一月、東武陽王鑒薨。
十二月、行自譙過梁、遣使以太牢祀故漢太尉橋玄
(『三国志』巻二、文帝紀

黄初6年。



曹丕はまたも呉攻めを計画。思うに、蜀漢が主に呉によって大被害を出し皇帝も代替わりした今が二国のどちらかを討つチャンスだという認識だったのだろうし、魏王朝の面子としても反旗を翻した格好になる呉を放置するわけにいかなかったというのもあっただろう。



唐咨本利城人。黄初中、利城郡反、殺太守徐箕、推咨為主。文帝遣諸軍討破之、咨走入海、遂亡至呉、官至左將軍、封侯・持節。
(『三国志』巻二十八、諸葛誕伝)


利成郡は利城郡とも書かれる。反乱軍の大将となった唐咨は呉に行き、更に魏(司馬氏時代)に戻っている。


利城郡というのは魏武の時に泰山諸将の一人呉敦に与えられた郡であり、徐州にある。ということは、前年の徐州仕置が何らかの動揺を生み、反乱を誘発したという可能性が高そうだ。




なお、この年は蜀漢では建興3年。諸葛亮が南征を行って背後の憂いを無くした年である。


魏の対呉優先の戦略が上手く行かないうちに蜀漢が息を吹き返してきた、という構図ではなかろうか。