甲午、軍次於譙、大饗六軍及譙父老百姓於邑東。
【注】
魏書曰、設伎樂百戲、令曰「先王皆樂其所生、禮不忘其本。譙、霸王之邦、真人本出、其復譙租税二年。」三老吏民上壽、日夕而罷。丙申、親祠譙陵。
(『三国志』巻二、文帝紀、元康元年七月)
この記事はずっと前にもネタにしたが、敢えてもう一度。
「曹丕は自分たち曹氏の故地である譙に錦を飾り、『譙は覇王の生まれた国、真人の登場した場所であるから、租税を二年間免除する』という命令を出した」という内容なのだが・・・。
まず、命令文中で「邦」という漢の初代皇帝の諱を犯しているように見えることはどういうことなのだろうか。
この当時は皇帝の諱を避けることに対して厳しくなかったのか、それとも曹丕たちは敢えてそうしたのか*1。
また、譙は魏国には入っていないはずなので、この命令は魏王としてではなく、丞相として出したことになるのだろう。
丞相が自分の故郷に対して恩沢を施すというのは、まあ平常時なら罷免どころか命が危ないレベルの所業のはずだ。
こういう恩沢、恩赦というのは皇帝の専権事項と相場が決まっているから。
それを大々的に行うというあたり、曹丕たちの中では、既に政権交代は完了しているという認識だったのだろうか?(まあ客観的に見ればそれで間違いはないだろうが)