『漢書』武帝紀を読んでみよう:その21

その20(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171224/1514041284)の続き。





元封元年冬十月、詔曰「南越・東甌咸伏其辜、西蠻・北夷頗未輯睦、朕將巡邊垂、擇兵振旅、躬秉武節,置十二部將軍、親帥師焉。」
行自雲陽、北歴上郡・西河・五原、出長城、北登單于臺、至朔方、臨北河。勒兵十八萬騎、旌旗徑千餘里、威震匈奴
遣使者告單于曰「南越王頭已縣於漢北闕矣。單于能戰、天子自將待邊。不能、亟來臣服。何但亡匿幕北寒苦之地為!」匈奴讋焉。
還、祠黄帝於橋山、乃歸甘泉。
東越殺王餘善降。詔曰「東越險阻反覆、為後世患、遷其民於江淮間。」遂虚其地。
春正月、行幸緱氏。詔曰「朕用事華山、至於中嶽、獲駮麃、見夏后啟母石。翌日親登嵩高、御史乗屬、在廟旁吏卒咸聞呼萬歳者三。登禮罔不答。其令祠官加筯太室祠、禁無伐其草木。以山下戸三百為之奉邑、名曰崇高、獨給祠、復亡所與。」
行、遂東巡海上
夏四月癸卯、上還、登封泰山、降坐明堂。
詔曰「朕以眇身承至尊、兢兢焉惟紱菲薄、不明于禮樂、故用事八神。遭天地況施、著見景象、㞕然如有聞。震于怪物、欲止不敢、遂登封泰山、至於梁父、然後升襢肅然。自新、嘉與士大夫更始、其以十月為元封元年。行所巡至、博・奉高・蛇丘、歴城・梁父、民田租逋賦貸、已除。加年七十以上孤寡帛、人二匹。四縣無出今年算。賜天下民爵一級、女子百戸牛酒。」
行自泰山、復東巡海上、至碣石。自遼西歴北邊九原、歸于甘泉。
秋、有星孛于東井、又孛于三台。
齊王閎薨。
(『漢書』巻六、武帝紀)

元封元年。



この元号は「封禅」を行った事から来ている。




この年、武帝は自ら上郡、五原郡といった北辺まで行幸して匈奴に戦いを挑んだ。


其來年冬、上議曰「古者先振兵釋旅、然後封禪。」乃遂北巡朔方、勒兵十餘萬騎、還祭黄帝冢橋山、釋兵凉如。
(『漢書』巻二十五上、郊祀志上)

これは単なる示威行為でもなければ自慰行為でもなく、古の故事に倣うと共に、「匈奴は漢の威に恐れをなして逃げ隠れた」と言える実績が必要だったからだと思われる。



南では越を平らげ、北は匈奴を威圧し黙らせ、まつろわぬ民は全て漢の前に伏したのだ、漢が天下太平をもたらしたのだ、という形を作ることで、太平をもたらした聖天子だけが行うことができるという「封禅」を行うに足る資格が手に入ったということなのだと思う。




そして武帝はその年の内に泰山において封禅の儀式を行い、北をぐるりと巡って三輔に戻ってきた。


天子既已封泰山、無風雨、而方士更言蓬萊諸神若將可得、於是上欣然庶幾遇之、復東至海上望焉。奉車(霍)子侯暴病、一日死。上乃遂去、並海上、北至碣石、巡自遼西、歴北邊至九原。
五月、乃至甘泉、周萬八千里云。
(『漢書』巻二十五上、郊祀志上)

この年の武帝は北方をとんでもない距離移動しており、本人の労力という点でも経費的な意味でも、伊達や酔狂で出来るような域ではないと言えるだろう。


「封禅」というのは、少なくとも武帝にとっては自らの身体を張った国家的大プロジェクトだったのである。