『漢書』宣帝紀を読んでみよう:その17

その16(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180221/1519140569)の続き。




二年春二月、詔曰「乃者正月乙丑、鳳皇甘露降集京師、羣鳥從以萬數。朕之不徳、屢獲天福、祗事不怠、其赦天下。」
夏五月、羌虜降服、斬其首惡大豪楊玉・酋非首。置金城屬國以處降羌。
秋、匈奴日逐王先賢撣將人衆萬餘來降。
使都護西域騎都尉鄭吉迎日逐、破車師、皆封列侯。
九月、司隸校尉蓋𥶡饒有罪、下有司、自殺。
匈奴單于遣名王奉獻、賀正月、始和親。
(『漢書』巻八、宣帝紀

神爵2年。



羌は趙充国の策略によって瓦解。





匈奴から王の一人、日逐王先賢撣が降伏。この日逐王は匈奴単于の子で、次の単于になるのではないかとも言われていたが、そのためか現単于とは折り合いが悪かったらしい。


この降伏は匈奴に動揺をもたらしたようで、衆心を失っていた匈奴単于に対立単于が立つという事態が起こっている。



その対立単于の名を「呼韓邪單于」と言った。



日逐王は漢においても重く扱われ、「帰徳侯」の爵位を与えられた*1





「西域都護」誕生。

神爵中、匈奴乖亂、日逐王先賢撣欲降漢、使人與(鄭)吉相聞。吉發渠黎・龜茲諸國五萬人迎日逐王、口萬二千人・小王將十二人隨吉至河曲、頗有亡者、吉追斬之、遂將詣京師。
漢封日逐王為歸徳侯。
吉既破車師、降日逐、威震西域、遂并護車師以西北道、故號都護。都護之置自吉始焉。
(『漢書』巻七十、鄭吉伝)


西域の北道と南道の両方をテリトリーとしたことから「都護」と呼ぶことになったという。ちなみにこの鄭吉は会稽出身でありながら西域の頂点に登り詰めた変わり種である。





蓋𥶡饒、自殺。急に自殺したというわけではなく、皇帝への誹謗とされて処罰(極刑である)される前に自ら命を絶ったのである。


彼は直言の士であったのだが、諫言の中で当時宦官が力を得ていた事を批判しており、それが宣帝の怒りを買ったのかもしれない。





そして匈奴単于漢王朝に対して貴人を使者として送り、新年の祝賀を行い、和親を求めた。


これはつまり漢王朝に対して下手に出るというポーズである。




人心を失いつつあった当時の匈奴単于が、漢王朝からの攻勢を抑える必要を感じたのだろう。




漢と匈奴の力関係を見る上で一つの画期になっていると言える。