『漢書』武帝紀を読んでみよう:その31

その30(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180107/1515250894)の続き。




三年春正月、行幸雍、至安定・北地。匈奴入五原・酒泉、殺両都尉。
三月、遣貳師將軍(李)廣利將七萬人出五原、御史大夫商丘成二萬人出西河、重合侯馬通四萬騎出酒泉。成至浚稽山與虜戰、多斬首。通至天山、虜引去、因降車師。皆引兵還。廣利敗、降匈奴
夏五月、赦天下。
六月、丞相(劉)屈氂下獄要斬、妻梟首。
秋、蝗。
九月、反者公孫勇・胡倩發覺、皆伏辜。
四年春正月、行幸東萊、臨大海。
二月丁酉、隕石于雍、二、聲聞四百里
三月、上耕于鉅定。
還幸泰山、修封。
庚寅、祀于明堂。
癸巳、襢石閭。
夏六月、還幸甘泉。
秋八月辛酉晦、日有蝕之。
(『漢書』巻六、武帝紀)

征和3年、4年。




前年に匈奴が北辺へ侵入していたが、武帝は同じ郡でこそないがすぐに北辺へ自ら臨んでいる。



武帝の年齢などを考えれば、これは実はなかなかの偉業ではなかろうか。




そして、李広利匈奴に沈む。

單于知漢軍勞倦、自將五萬騎遮撃貳師、相殺傷甚衆。夜塹漢軍前、深數尺、從後急撃之、軍大亂敗、貳師降。
單于素知其漢大將貴臣、以女妻之、尊寵在衛律上。
(『漢書』巻九十四上、匈奴伝上)


もっとも、匈奴は李広利を厚遇し、先に降伏して対漢の軍事顧問のようになっていた衛律よりも尊重されたという。

貳師在匈奴歳餘、衛律害其寵、會母閼氏病、律飭胡巫言先單于怒、曰「胡攻時祠兵、常言得貳師以社、今何故不用?」於是收貳師、貳師罵曰「我死必滅匈奴!」遂屠貳師以祠。
會連雨雪數月、畜產死、人民疫病、穀稼不孰、單于恐、為貳師立祠室。
(『漢書』巻九十四上、匈奴伝上)


最終的に李広利は匈奴内での漢人同士の足の引っ張り合いに敗れて殺された。





また、丞相劉屈氂もまた殺された。

其明年、貳師將軍李廣利將兵出撃匈奴、丞相為祖道、送至渭橋、與廣利辭決。廣利曰「願君侯早請昌邑王為太子。如立為帝、君侯長何憂乎?」屈氂許諾。昌邑王者、貳師將軍女弟李夫人子也。貳師女為屈氂子妻、故共欲立焉。
是時治巫蠱獄急、内者令郭穰告丞相夫人以丞相數有譴、使巫祠社、祝詛主上、有惡言、及與貳師共禱祠、欲令昌邑王為帝。有司奏請案驗、罪至大逆不道。
有詔載屈氂廚車以徇、要斬東市、妻子梟首華陽街。
貳師將軍妻子亦收。貳師聞之、降匈奴、宗族遂滅。
(『漢書』巻六十六、劉屈氂伝)


劉屈氂は李広利と通婚関係にあったが、李広利の甥が新たな皇太子候補のひとり昌邑王であったことから、この両名は昌邑王を皇太子にするという目的のために動いていたらしい。


だが、それについて「巫蠱」であるとの疑いがかかり、劉屈氂は獄に下されて最終的には処刑、李広利はそれを知って進退窮まって匈奴に下ったのだ、という。




會衛太子為江充所譖敗、久之、(田)千秋上急變訟太子冤、曰「子弄父兵、罪當笞、天子之子過誤殺人、當何罪哉!臣嘗夢見一白頭翁教臣言。」是時、上頗知太子惶恐無他意、乃大感寤、召見千秋。至前、千秋長八尺餘、體貌甚麗、武帝見而説之、謂曰「父子之間、人所難言也、公獨明其不然。此高廟神靈使公教我、公當遂為吾輔佐。」
(『漢書』巻六十六、車千秋伝)


なお、この頃にはすでに武帝は皇太子の反乱について「皇太子は追い詰められただけで悪意はなかった」と考えるようになっていたようで、皇太子の反乱を鎮圧し結果として皇太子の命を奪うことになった側の人間は、武帝の見る目という点で、おそらく少々微妙な立場に置かれるようになっていたのではないかと思われる。


次回あたりでこの件が問題化する。