『漢書』宣帝紀を読んでみよう:その22

その21(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180227/1519657546)の続き。




二年春正月、立皇子囂為定陶王。
詔曰「乃者鳳皇甘露降集、黄龍登興、醴泉滂流、枯槁榮茂、神光並見、咸受禎祥。其赦天下。減民算三十。賜諸侯王・丞相・將軍・列侯・中二千石金錢各有差。賜民爵一級、女子百戸牛酒、鰥寡孤獨高年帛。」
夏四月、遣護軍都尉祿將兵撃珠崖。
秋九月、立皇子宇為東平王。
冬十二月、行幸萯陽宮屬玉觀。
匈奴呼韓邪單于款五原塞、願奉國珍朝三年正月。詔有司議。咸曰「聖王之制、施徳行禮、先京師而後諸夏、先諸夏而後夷狄。詩云『率禮不越、遂視既發。相土烈烈、海外有𢧵。』陛下聖徳、充塞天地、光被四表。匈奴單于郷風慕義、舉國同心、奉珍朝賀、自古未之有也。單于非正朔所加、王者所客也、禮儀宜如諸侯王、稱臣昧死再拜、位次諸侯王下。」詔曰「蓋聞五帝三王、禮所不施、不及以政。今匈奴單于稱北藩臣、朝正月、朕之不逮、徳不能弘覆。其以客禮待之、位在諸侯王上。」
(『漢書』巻八、宣帝紀

甘露2年。




呼韓邪単于、自ら皇帝に謁見することを願い出る。



初、匈奴呼韓邪單于來朝、詔公卿議其儀、丞相霸・御史大夫定國議曰「聖王之制、施徳行禮、先京師而後諸夏、先諸夏而後夷狄。詩云『率禮不越、遂視既發。相土烈烈、海外有截。』陛下聖徳充塞天地、光被四表、匈奴單于郷風慕化、奉珍朝賀、自古未之有也。其禮儀宜如諸侯王、位次在下。」
(蕭)望之以為「單于非正朔所加、故稱敵國、宜待以不臣之禮、位在諸侯王上。外夷稽首稱藩、中國讓而不臣、此則羈縻之誼、謙亨之福也。書曰『戎狄荒服』、言其來服、荒忽亡常。如使匈奴後嗣卒有鳥竄鼠伏、闕於朝享、不為畔臣。信讓行乎蠻貉、福祚流于亡窮、萬世之長策也。」天子采之、下詔曰「蓋聞五帝三王教化所不施、不及以政。今匈奴單于稱北藩、朝正朔、朕之不逮、徳不能弘覆。其以客禮待之、令單于位在諸侯王上、贊謁稱臣而不名。」
(『漢書』巻七十八、蕭望之伝)


その際、皇帝の前に並ぶ順番、序列をどうするのか、ということが議論された。



多くの者は諸侯王の下とするべきだ、と主張したが、宣帝は諸侯王の上位とし、完全な臣下ではなく客分としての礼で対応する、と定めた。



つまり、匈奴は臣従していても一臣下としては扱わない、という事である。



それを提唱した太子太傅蕭望之によると、匈奴の体面を保つ一方で、庇護下には入れないという事でもあるので、いつでも切り離せる、という事であるようだ*1

*1:諸侯王やそれ以下の臣下が皇帝に従わなかったら反乱者として討伐しなければいけないが、臣下でなければ万一従わなくなっても放置しても皇帝の権威に影響しない、という事。