『漢書』武帝紀を読んでみよう:その24

その23(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171228/1514387965)の続き。




五年冬、行南巡狩、至于盛唐、望祀虞舜于九嶷。登灊天柱山、自尋陽浮江、親射蛟江中、獲之。舳艫千里、薄樅陽而出、作盛唐樅陽之歌。遂北至琅邪、並海、所過禮祠其名山大川。
春三月、還至泰山、筯封。甲子、祠高祖于明堂、以配上帝、因朝諸侯王列侯、受郡國計。
夏四月、詔曰「朕巡荊揚、輯江淮物、會大海氣、以合泰山。上天見象、筯修封禪。其赦天下。所幸縣毋出今年租賦、賜鰥寡孤獨帛、貧窮者粟。」
還幸甘泉、郊泰畤。
大司馬大將軍(衛)青薨。
初置刺史部十三州。
名臣文武欲盡、詔曰「蓋有非常之功、必待非常之人、故馬或奔踶而致千里、士或有負俗之累而立功名。夫泛駕之馬、跅弛之士、亦在御之而已。其令州郡察吏民有茂材異等可為將相及使絶國者。」
六年冬、行幸回中。
春、作首山宮。
三月、行幸河東、祠后土。
詔曰「朕禮首山、昆田出珍物、化或為黄金。祭后土、神光三燭。其赦汾陰殊死以下、賜天下貧民布帛、人一匹。」
益州昆明反、赦京師亡命令從軍、遣拔胡將軍郭昌將以撃之。
夏、京師民觀角抵于上林平樂館。
秋、大旱、蝗。
(『漢書』巻六、武帝紀)

元封5年、6年。




文章ではサクッと移動しているように思えるが、元封5年の行幸は零陵、廬江から琅邪まで行っており、結構な移動距離である。



始皇帝がそうだったように(というか直接の手本が始皇帝だろう)、中華の聖天子は荊州、揚州、青州といった辺境の方まで威光をいきわたらせなければいけなかったのである。





衛青、死去。既に前線に出ていなかったとはいえ、これは時代の変わり目を象徴する出来事だったかもしれない。




監御史、秦官、掌監郡。
漢省、丞相遣史分刺州、不常置。
武帝元封五年初置部刺史、掌奉詔條察州、秩六百石、員十三人。
(『漢書』巻十九上、百官公卿表上)

刺史設置。



秦の時の監御史の後継的な監察官であったとされている。漢ではそれまでは郡を直接監察する官は常設されていなかったということなので、漢は全国の郡を統括し監察するための体制を強化したのだ、と言えるだろう。