『漢書』武帝紀を読んでみよう:その20

その19(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171223/1513954952)の続き。





六年冬十月、發隴西・天水・安定騎士及中尉・河南・河内卒十萬人、遣將軍李息・郎中令徐自為征西羌、平之。
行東、將幸緱氏、至左邑桐郷、聞南越破、以為聞喜縣。
春、至汲新中郷、得呂嘉首、以為獲嘉縣。
馳義侯遺兵未及下、上便令征西南夷、平之。
遂定越地、以為南海・蒼梧・鬱林・合浦・交阯・九真・日南・珠突・儋耳郡。
西南夷、以為武都・牂柯・越嶲・沈黎・文山郡。
秋、東越王餘善反、攻殺漢將吏。遣膻海將軍韓説・中尉王温舒出會稽、樓船將軍楊僕出豫章、撃之。
又遣浮沮將軍公孫賀出九原、匈河將軍趙破奴出令居、皆二千餘里、不見虜而還。乃分武威・酒泉地置張掖・敦煌郡、徙民以實之。
(『漢書』巻六、武帝紀)

元鼎6年。




この年、さっそく南越征服の報が武帝の元に届く。




及至南粵反、上使馳義侯因犍為發南夷兵。且蘭君恐遠行、旁國虜其老弱、乃與其衆反、殺使者及犍為太守。
漢乃發巴蜀罪人當撃南粵者八校尉撃之。會越已破、漢八校尉不下、中郎將郭昌・衛廣引兵還、行誅隔滇道者且蘭、斬首數萬、遂平南夷為牂柯郡。
夜郎侯始倚南粵、南粵已滅、還誅反者、夜郎遂入朝、上以為夜郎王。
南粵破後、及漢誅且蘭・邛君、并殺莋侯、冉駹皆震恐、請臣置吏。以邛都為粵巂郡、莋都為沈黎郡、冉駹為文山郡、廣漢西白馬為武都郡。
(『漢書』巻九十五、西南夷両粵朝鮮伝、西南夷

西南夷も一部が漢に逆らったため、南越に行くはずだった兵力の一部が征服に向かった。



至元鼎五年、南粵反、餘善上書請以卒八千從樓船撃呂嘉等。兵至揭陽、以海風波為解、不行、持両端、陰使南粵。
及漢破番禺、樓船將軍僕上書願請引兵擊東粵。上以士卒勞倦、不許、罷兵、令諸校留屯豫章梅領待命。
明年秋、餘善聞樓船請誅之、漢兵留境、且往、乃遂發兵距漢道、號將軍騶力等為「吞漢將軍」、入白沙・武林・梅領、殺漢三校尉。是時、漢使大司農張成・故山州侯齒將屯、不敢撃、卻就便處、皆坐畏懦誅。
餘善刻「武帝」璽自立、詐其民、為妄言。
上遣膻海將軍韓説出句章、浮海從東方往。樓船將軍僕出武林、中尉王温舒出梅領、粵侯為戈船・下瀬將軍出如邪・白沙、元封元年冬、咸入東粵。
(『漢書』巻九十五、西南夷両粵朝鮮伝、閩粵)

また東越王余善もまた漢に背いたため、漢はやはり楊僕を始めとする将軍たちを大量に送り込み、一気に越方面の完全平定を図った。



それぞれ漢への反抗が理由とはいえ、どちらかというと漢の側が強引にでも一気にまとめて潰してしまおう、と考えたんじゃないかと思わないでもない。






南越は元々は秦王朝の官僚が王になったものという経緯を見れば分かるように、今回武帝が征服した地域は、始皇帝の時に一度は秦王朝の版図になった地域である。



つまり、今回の武帝による越征服は、武帝から見ると「始皇帝以降の失地を回復する」というものであったと捉えることもできるだろう。