『漢書』武帝紀を読んでみよう:その19

その18(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171220/1513695799)の続き。





五年冬十月、行幸雍、祠五畤。遂踰隴、登空同、西臨祖窅河而還。
十一月辛巳朔旦、冬至。立泰畤于甘泉。天子親郊見、朝日夕月。
詔曰「朕以眇身託于王侯之上、徳未能綏民、民或飢寒、故巡祭后土以祈豐年。冀州脽壤乃顯文鼎、獲薦於廟。渥洼水出馬、朕其御焉。戰戰兢兢、懼不克任、思昭天地、内惟自新。詩云『四牡翼翼、以征不服。』親省邊垂、用事所極。望見泰一、修天文襢。辛卯夜、若景光十有二明。易曰『先甲三日、後甲三日。』朕甚念年歳未咸登、飭躬齋戒、丁酉、拜況于郊。」
夏四月、南越王相呂嘉反、殺漢使者及其王・王太后
赦天下。
丁丑晦、日有蝕之。
秋、鼃・蝦蟆鬭。
遣伏波將軍路博徳出桂陽、下湟水。樓船將軍楊僕出豫章、下湞水。歸義越侯嚴為戈船將軍、出零陵、下離水。甲為下瀬將軍、下蒼梧。皆將罪人、江淮以南樓船十萬人。越馳義侯遺別將巴蜀罪人、發夜郎兵、下牂柯江、咸會番禺。
九月、列侯坐獻黄金酎祭宗廟不如法奪爵者百六人、丞相趙周下獄死。
樂通侯欒大坐誣罔要斬。
西羌衆十萬人反、與匈奴通使、攻故安、圍枹䍐。
匈奴入五原、殺太守。
(『漢書』巻六、武帝紀)

元鼎5年。




南越でクーデターが起こった。



南越の王の母は漢の人間であった事もあり、王と母(太后)は漢への内属を望んでいたが、南越の宰相呂嘉はそれを望まず、ついに王たちに背いて漢と敵対した。



漢は大軍を送り込み、越からの降伏者や夜郎西南夷)を動員した。





酎金事件が起こる。



列侯は毎年祭祀のために皇帝に金を献上する事になっていたが、この時の金が量や色が規定に満たなかったという。色が悪い、つまり金の含有率が低かったのだろう。



これを理由に100人以上の列侯が爵位と領土を召し上げられ、更にその時の丞相趙周は責任を問われて獄に下されて死んだ。




これによって高祖以来の功臣の子孫や、諸侯王から分家した王子たちの領土が相当お上のものになった、ということである。特に高祖以来の功臣の子孫はここでほぼ全て地位を失った。



ちょっと、いやかなり作為めいたものを感じるところだが、おそらくは酎金の規定違反は常態化していたのだろう。そこを皇帝に突かれた、というところなのではなかろうか。


是時、上方憂河決而黄金不就、乃拜(欒)大為五利將軍。居月餘、得四印。得天士將軍・地士將軍・大通將軍印。・・・(中略)・・・五利妄言見其師、其方盡、多不讎。上乃誅五利。
(『漢書』巻二十五上、郊祀志上)


欒大というのはいわば方士であって武帝も一度は信頼し「五利将軍」の号を与えたのだが、結局は偽物だと判断して処刑した。



ちなみに似たような事は文帝もやっている。