二枚舌の結果

高后時、有司請禁粵關巿鐵器。(趙)佗曰「高皇帝立我、通使物、今高后聽讒臣、別異蠻夷、鬲絶器物、此必長沙王計、欲倚中國、撃滅南海并王之、自為功也。」
於是佗乃自尊號為南武帝發兵攻長沙邊、敗數縣焉
高后遣將軍隆慮侯(周)竈撃之、會暑溼、士卒大疫、兵不能隃領。歳餘、后崩、即罷兵。佗因此以兵威財物賂遺閩粵・西甌駱、伇屬焉。東西萬餘里。乃乗黃屋左纛、稱制、與中國侔。
文帝元年、初鎮撫天下、使告諸侯四夷從代來即位意、諭盛徳焉。乃為佗親冢在真定置守邑、歳時奉祀。召其從昆弟、尊官厚賜寵之。詔丞相(陳)平舉可使粵者、平言陸賈先帝時使粵。
上召賈為太中大夫、謁者一人為副使、賜佗書曰「・・・(中略)・・・乃者聞王遺將軍隆慮侯書、求親昆弟、請罷長沙両將軍。・・・(後略)・・・
(『漢書』巻九十五、南越伝)

漢初の長沙王と南越王の領土が重複している問題、呂后の時代には南越が「長沙がこちらを攻めようとしている」と言い出して反撃を始め、最後には独立をたくらむようになったようだ。



長沙は長沙で、どうやら呂后の時の南越討伐の際に将軍を二人出していたらしく、一方的にやられるだけではなさそうだ。



というか、長沙はもともと南越からの「失地回復」を狙っていただろうし、向こうが攻めてきたとなれば大々的に軍を出すのも当然か。





うん、完全に二枚舌外交のせいでこじれてる。長沙も侵略してくる隣国であると同時に逆襲して領土を切り取りたい相手として南越を見てる。




こんな二国を何とか抑えるの、漢も結構大変だったんだろうと思うが、まあ大体自業自得という感じもある。