『三国志』陳留王奐紀を読んでみよう:その6

その5(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/03/22/000100)の続き。





初、自平蜀之後、呉寇屯逼永安、遣荊・豫諸軍掎角赴救。七月、賊皆遁退。
八月庚寅、命中撫軍司馬炎副貳相國事、以同魯公拝後之義。
癸巳、詔曰「前逆臣鍾會構造反亂、聚集征行將士、劫以兵威、始吐姦謀、發言桀逆、逼脅衆人、皆使下議、倉卒之際、莫不驚懾。相國左司馬夏侯和・騎士曹屬朱撫時使在成都、中領軍司馬賈輔・郎中羊琇各參會軍事。和・琇・撫皆抗節不撓、拒會凶言、臨危不顧、詞指正烈。輔語散將王起、説『會姦逆凶暴、欲盡殺將士』又云『相國已率三十萬衆西行討會』、欲以稱張形勢、感激衆心。起出、以輔言宣語諸軍、遂使將士益懷奮勵。宜加顯寵、以彰忠義。其進和・輔爵為郷侯、琇・撫爵關内侯。起宣傳輔言、告令將士、所宜賞異。其以起為部曲將。」
癸卯、以衛將軍司馬望為驃騎將軍。
九月戊午、以中撫軍司馬炎為撫軍大將軍。
辛未、詔曰「呉賊政刑暴虐、賦斂無極。孫休遣使鄧句、勑交阯太守鎖送其民、發以為兵。呉將呂興因民心憤怒、又承王師平定巴蜀、即糾合豪傑、誅除句等、驅逐太守長吏、撫和吏民、以待國命。九真・日南郡聞興去逆即順、亦齊心響應、與興協同。興移書日南州郡、開示大計、兵臨合浦、告以禍福。遣都尉唐譜等詣進乗縣、因南中都督護軍霍弋上表自陳。又交阯將吏各上表言『興創造事業、大小承命。郡有山寇、入連諸郡、懼其計異、各有攜貳。權時之宜、以興為督交阯諸軍事・上大將軍・定安縣侯、乞賜褒奬、以慰邊荒』。乃心款誠、形于辭旨。昔儀父朝魯、春秋所美。竇融歸漢、待以殊禮。今國威遠震、撫懷六合、方包舉殊裔、混一四表。興首向王化、舉衆稽服、萬里馳義、請吏帥職、宜加寵遇、崇其爵位。既使興等懷忠感悦、遠人聞之、必皆競勸。其以興為使持節・都督交州諸軍事・南中大將軍、封定安縣侯、得以便宜從事、先行後上。」策命未至、興為下人所殺。
冬十月丁亥、詔曰「昔聖帝明王、靜亂濟世、保大定功、文武殊塗、勳烈同歸。是故或舞干戚以訓不庭、或陳師旅以威暴慢。至于愛民全國、康惠庶類、必先脩文教、示之軌儀、不得已然後用兵、此盛徳之所同也。往者季漢分崩、九土顛覆、劉備・孫權乗間作禍。三祖綏寧中夏、日不暇給、遂使遺寇僭逆歴世。幸頼宗廟威靈、宰輔忠武、爰發四方、拓定庸・蜀、役不浹時、一征而克。自頃江表衰弊、政刑荒闇、巴・漢平定、孤危無援、交・荊・揚・越、靡然向風。今交阯偽將呂興已帥三郡、萬里歸命。武陵邑侯相嚴等糾合五縣、請為臣妾。豫章廬陵山民舉衆叛呉、以助北將軍為號。又孫休病死、主帥改易、國内乖違、人各有心。偽將施績、賊之名臣、懷疑自猜、深見忌惡。衆叛親離、莫有固志、自古及今、未有亡徴若此之甚。若六軍震曜、南臨江・漢、呉會之域必扶老攜幼以迎王師、必然之理也。然興動大衆、猶有勞費、宜告喻威徳、開示仁信、使知順附和同之利。相國參軍事徐紹・水曹掾孫彧、昔在壽春、並見虜獲。紹本偽南陵督、才質開壯。彧、孫權支屬、忠良見事。其遣紹南還、以彧為副、宣揚國命、告喻呉人、諸所示語、皆以事實。若其覺悟、不損征伐之計、蓋廟勝長算、自古之道也。其以紹兼散騎常侍、加奉車都尉、封都亭侯。彧兼給事黃門侍郎、賜爵關内侯。紹等所賜妾及男女家人在此者、悉聽自隨、以明國恩、不必使還、以開廣大信。」
丙午、命撫軍大將軍新昌郷侯炎為晉世子。
是歳、罷屯田官以均政役、諸典農皆為太守、都尉皆為令長。
勸募蜀人能内移者、給廩二年、復除二十歳。
安彌・福祿縣各言嘉禾生
(『三国志』巻四、陳留王奐紀)

咸熙元年後半。




「魯公拝後」というのは、どうやら周の時に周公旦が本来の領土である魯に行かず周の朝廷にいるため、周公旦の子の伯禽を魯公にした、という話の事らしい。司馬炎司馬昭の後を継ぐのだ、という事だろうか。この場合は「相国」の副なので、継ぐのは爵位ではなく相国の事なのかもしれない。官職を子が継ぐのは普通なら中々ない事だが、後漢末にも同じような事例がある。それと同じようにする、という宣言なのかもしれない。



(永安六年)五月、交阯郡吏呂興等反、殺太守孫諝。諝先是科郡上手工千餘人送建業、而察戰至、恐復見取、故興等因此扇動兵民、招誘諸夷也。・・・(中略)・・・呂興既殺孫諝、使使如魏、請太守及兵。
(『三国志』巻四十八、孫休伝)


呂興の反乱は前の年に起こっている。司馬氏は蜀漢攻めが終わった事でそちらに目を向ける事が出来るようになったのだろう。




その後の「呉は皇帝の孫休は死んだし反乱は起こってるしメチャクチャだから千載一遇のチャンスだけど降伏させられれば安上がりだから降伏勧告するぞ」という話の中で、施績(朱績)と中央の関係が悪いかのように書かれているのは気になる。何か起こっていたんだったか。




後漢末から魏と稼働し続けた屯田制度が一段落。屯田の組織は郡県に改編されたそうな。