『三国志』武帝紀を読んでみよう:その30

その29(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/01/04/000100)の続き。





十二年春二月、公自淳于還鄴。
丁酉、令曰「吾起義兵誅暴亂、於今十九年、所征必克、豈吾功哉?乃賢士大夫之力也。天下雖未悉定、吾當要與賢士大夫共定之、而專饗其勞、吾何以安焉!其促定功行封。」於是大封功臣二十餘人、皆為列侯、其餘各以次受封、及復死事之孤、輕重各有差。
將北征三郡烏丸、諸將皆曰「袁尚、亡虜耳、夷狄貪而無親、豈能為尚用?今深入征之、劉備必説劉表以襲許。萬一為變、事不可悔。」惟郭嘉策表必不能任備、勸公行。
夏五月、至無終。
秋七月、大水、傍海道不通、田疇請為郷導、公從之。引軍出盧龍塞、塞外道絶不通、乃塹山堙谷五百餘里、經白檀、歴平岡、渉鮮卑庭、東指柳城。未至二百里、虜乃知之。尚・熙與蹋頓・遼西單于樓班・右北平單于能臣抵之等將數萬騎逆軍。
八月、登白狼山、卒與虜遇、衆甚盛。公車重在後、被甲者少、左右皆懼。公登高、望虜陳不整、乃縱兵撃之、使張遼為先鋒、虜衆大崩、斬蹋頓及名王已下、胡・漢降者二十餘萬口。遼東單于速僕丸及遼西・北平諸豪、棄其種人、與尚・熙奔遼東、衆尚有數千騎。
初、遼東太守公孫康恃遠不服。及公破烏丸、或説公遂征之、尚兄弟可禽也。公曰「吾方使康斬送尚・熙首、不煩兵矣。」
九月、公引兵自柳城還、康即斬尚・熙及速僕丸等、傳其首。諸將或問「公還而康斬送尚・熙、何也?」公曰「彼素畏尚等、吾急之則并力、緩之則自相圖、其勢然也。」
十一月至易水、代郡烏丸行單于普富盧・上郡烏丸行單于那樓將其名王來賀。
(『三国志』巻一、武帝紀)

魏武、遼西烏丸の蹋頓ら「三郡烏丸」*1を破り、袁尚らは公孫康の元へ。


建安十一年、太祖自征蹋頓於柳城、潛軍詭道、未至百餘里、虜乃覺。(袁)尚與蹋頓將衆逆戰於凡城、兵馬甚盛。太祖登高望虜陳、抑軍未進、觀其小動、乃撃破其衆、臨陳斬蹋頓首、死者被野。速附丸・樓班・烏延等走遼東、遼東悉斬、傳送其首。其餘遺迸皆降。及幽州・并州(閻)柔所統烏丸萬餘落、悉徙其族居中國、帥從其侯王大人種衆與征伐。
由是三郡烏丸為天下名騎。
(『三国志』巻三十、烏丸伝)


この後、中原の支配下にあった烏丸は内地へ移動させられた。この烏丸伝の内容からすると、主に魏武・魏王朝の騎兵として使われたものと思われる。



また、その後鮮卑の勢力が拡大していくのは、烏丸の圧力が消えた事と無関係ではあるまい。


公孫度)分遼東郡為遼西・中遼郡、置太守。越海收東萊諸縣、置營州刺史。自立為遼東侯・平州牧、追封父延為建義侯。立漢二祖廟、承制設壇墠於襄平城南、郊祀天地、藉田、治兵、乗鸞路、九旒、旄頭羽騎。
太祖表度為武威將軍、封永寧郷侯、度曰「我王遼東、何永寧也!」藏印綬武庫。
度死、子康嗣位、以永寧郷侯封弟恭。是歳建安九年也。
十二年、太祖征三郡烏丸、屠柳城。袁尚等奔遼東、康斬送尚首。語在武紀。封康襄平侯、拝左將軍。
(『三国志』巻八、公孫度伝)


公孫康玄菟郡の人で、遼東太守となって事実上独立状態を維持し、「遼東侯・平州牧」なる地位を自称までしていた公孫度の子。公孫康はその後を継いでいた。


黒山賊がそうだったように、公孫康も魏武に敵対せず、形式的にであれ従う方針に決めたという事なのだろう。




功臣たちへの封侯も始めているし、この時期の魏武には天下人にならんとする人物の貫禄を感じる。



実際、この時点で明らかに魏武に敵対的な勢力は劉表くらいしか残っていないと言っても過言ではないのだから当然か。

*1:「三郡」とは烏丸の王がいた遼西・上谷・右北平のことか?