その7(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171009/1507476956)の続き。
三年冬十月丁酉晦、日有食之。
十一月丁卯晦、日有蝕之。
詔曰「前日詔遣列侯之國、辭未行。丞相朕之所重、其為朕率列侯之國。」遂免丞相勃、遣就國。
十二月、太尉潁陰侯灌嬰為丞相。罷太尉官、屬丞相。
夏四月、城陽王章薨。
淮南王長殺辟陽侯審食其。
五月、匈奴入居北地・河南為寇。上幸甘泉、遣丞相灌嬰撃匈奴、匈奴去。發中尉材官屬衛將軍、軍長安。
上自甘泉之高奴、因幸太原、見故羣臣、皆賜之。舉功行賞、諸民里賜牛酒。復晉陽・中都民三歳租。留游太原十餘日。
濟北王興居聞帝之代欲自撃匈奴、乃反、發兵欲襲滎陽。於是詔罷丞相兵、以棘蒲侯柴武為大將軍、將四將軍十萬衆撃之。祁侯虵賀為將軍、軍滎陽。
秋七月、上自太原至長安。
詔曰「濟北王背徳反上、詿誤吏民、為大逆。濟北吏民兵未至先自定及以軍城邑降者、皆赦之、復官爵。與王興居去來者、亦赦之。」
八月、虜濟北王興居、自殺。赦諸與興居反者。
(『漢書』巻四、文帝紀)
文帝3年、記録によると日食が続いたというが、名君の時は騒がれないのである。
そして、前年に出されていた列侯に領国への赴任を命じたが、それを徹底させるためということで丞相周勃が名指しで赴任を命じられる。
これまた体のいい丞相罷免であろう。どのみち、実際に列侯の赴任が進まないままなら、いずれ列侯の筆頭でもあったはずの丞相周勃が責任を問われることに変わりはないだろうから、この措置を甘んじて受けるしかないというのが周勃の状況であろう。
文帝既立、以(周)勃為右丞相、賜金五千斤、食邑萬戸。居月餘、人或説勃曰「君既誅諸呂、立代王、威震天下、而君受厚賞、處尊位、以寵、久之即禍及身矣。」勃懼、亦自危、乃謝請歸相印。上許之。
歳餘、丞相(陳)平卒、上復以勃為丞相。
十餘月、上曰「前日吾詔列侯就國、或未能行、丞相吾所重、其率先之。」乃免相就國。
(『史記』巻五十七、絳侯周勃世家)
なお、周勃は文帝に疑われ危険な立場であると自覚し、丞相を辞めたがっていたとも言う。そうであれば、この罷免も引責というよりは周勃の意に沿ったものなのかもしれない。この名目であれば周勃にとっても必ずしも不名誉ではないだろうから。
また、前年に王になったばかり、まだ二十代の城陽王劉章が死去。更にその弟の済北王劉興居が反乱を起こして死んだ。
ちなみに、二人の兄の斉王は文帝前元年に死去している。全員が文帝の甥に当たり、まだ全員二十代かそこらだろう。
孝文帝二年、以齊之濟北郡立興居為濟北王、與城陽王倶立。
立二年、反。
始大臣誅呂氏時、朱虚侯功尤大、許盡以趙地王朱虚侯、盡以梁地王東牟侯。
及孝文帝立、聞朱虚・東牟之初欲立齊王、故絀其功。及二年、王諸子、乃割齊二郡以王章・興居。章・興居自以失職奪功。
章死、而興居聞匈奴大入漢、漢多發兵、使丞相灌嬰撃之、文帝親幸太原、以為天子自撃胡、遂發兵反於濟北。
天子聞之、罷丞相及行兵、皆歸長安。使棘蒲侯柴將軍撃破虜濟北王、王自殺、地入于漢、為郡。
(『史記』巻五十二、斉悼恵王世家)
済北王劉興居は頼れる兄が死んで孤立したから反乱したとも取れるし、穿った見方をするなら兄二人が若くしてバタバタ死んでいくのを目の当たりにし、自分の番になる前に決起したとも取れる。
それにしても、文帝らは最初からこうなることを予期していたかのように鮮やかに反乱を鎮圧している。やはり文帝は辣腕である。
なお、この時に匈奴が攻め込んだという「河南」とは「河南郡」ではなく、「河南地」と呼ばれる後の五原郡・朔方郡のあたり、河套(オルドス)近辺のことを指すらしい。
三年十月丁酉晦、日有食之。
十一月、上曰「前日詔遣列侯之國、或辭未行。丞相朕之所重、其為朕率列侯之國。」絳侯勃免丞相就國、以太尉潁陰侯嬰為丞相。罷太尉官、屬丞相。
四月、城陽王章薨。
淮南王長與從者魏敬殺辟陽侯審食其。
五月、匈奴入北地、居河南為寇。帝初幸甘泉。
六月、帝曰「漢與匈奴約為昆弟、毋使害邊境、所以輸遺匈奴甚厚。今右賢王離其國、將衆居河南降地、非常故、往來近塞、捕殺吏卒、驅保塞蠻夷、令不得居其故、陵轢邊吏、入盜、甚敖無道、非約也。其發邊吏騎八萬五千詣高奴、遣丞相潁陰侯灌嬰撃匈奴。」匈奴去、發中尉材官屬衛將軍軍長安。
辛卯、帝自甘泉之高奴、因幸太原、見故羣臣、皆賜之。舉功行賞、諸民里賜牛酒。復晉陽中都民三歳。留游太原十餘日。
濟北王興居聞帝之代、欲往撃胡、乃反、發兵欲襲滎陽。
於是詔罷丞相兵、遣棘蒲侯陳武為大將軍、將十萬往撃之。祁侯賀為將軍、軍滎陽。
七月辛亥、帝自太原至長安。迺詔有司曰「濟北王背徳反上、詿誤吏民、為大逆。濟北吏民兵未至先自定、及以軍地邑降者、皆赦之、復官爵。與王興居去來、亦赦之。」
八月、破濟北軍、虜其王。赦濟北諸吏民與王反者。
(『史記』巻十、孝文本紀)
『史記』では文の異同が多少ある。こちらでは日食が一つしか記されていないので、『漢書』の連発は何かの誤りの可能性もあるだろう。