陰安侯

羣臣從至、上議曰「丞相臣平・太尉臣勃・大將軍臣武・御史大夫臣蒼・宗正臣郢・朱虚侯臣章・東牟侯臣興居・典客臣揭再拜言大王足下。子弘等皆非孝惠皇帝子、不當奉宗廟。臣謹請陰安侯頃王后・琅邪王・列侯・吏二千石議、大王高皇帝子、宜為嗣。願大王即天子位。」
【注】
蘇林曰「高帝兄伯妻、羹頡侯母、丘嫂也。」晉灼曰「若蕭何夫人封為酇侯也。」
蘇林曰「高帝兄仲妻也。仲名喜、為代王、後廢為郃陽侯。子濞為呉王、故追諡為頃王。」如淳曰「王子侯表曰合陽侯喜以子濞為王、追諡為頃王。頃王后封陰安侯、時呂嬃為林光侯、蕭何夫人亦為酇侯。又宗室侯表此時無陰安侯、知其為頃王后也。案漢祠令、 陰安侯高帝嫂也。」師古曰「諸諡為傾者、漢書例作頃字、讀皆曰傾。」
(『漢書』巻四、文帝紀

漢書』注の蘇林によれば、漢の文帝に即位を勧める際に出てくる「陰安侯」はあの劉邦の長兄の妻で、「頃王后」は劉邦の次兄劉仲の妻であるのだという。


始高祖微時、嘗辟事、時時與賓客過巨嫂食。嫂厭叔、叔與客來、嫂詳為羹盡、櫟釜、賓客以故去。已而視釜中尚有羹、高祖由此怨其嫂。及高祖為帝、封昆弟、而伯子獨不得封。太上皇以為言、高祖曰「某非忘封之也、為其母不長者耳。」於是乃封其子信為羹頡侯。
(『史記』巻五十、楚元王世家)


だとすればこの陰安侯というのは、あの劉邦の面子を潰した「羹事件」(客に食事をふるまおうとしたが劉邦の兄嫁はもう食べ物が無いと偽った)の当事者である兄嫁自身である。



彼女自身にも列侯の地位を与えていたのであれば、劉邦もかつての恨みがあったにしてもそこまで冷遇はしていなかった、のかもしれない。