『漢書』成帝紀を読んでみよう:その22

その21(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180418/1523978003)の続き。




綏和元年春正月、大赦天下。
二月癸丑、詔曰「朕承太祖鴻業、奉宗廟二十五年、徳不能綏理宇内、百姓怨望者衆。不蒙天祐、至今未有繼嗣、天下無所係心。觀于往古近事之戒、禍亂之萌、皆由斯焉。定陶王欣於朕為子、慈仁孝順、可以承天序、繼祭祀。其立欣為皇太子。封中山王舅諫大夫馮參為宜郷侯、益中山國三萬戸、以慰其意。賜諸侯王・列侯金、天下當為父後者爵、三老・孝弟力田帛、各有差。」
又曰「蓋聞王者必存二王之後、所以通三統也。昔成湯受命、列為三代、而祭祀廢絶。考求其後、莫正孔吉。其封吉為殷紹嘉侯。」
三月、進爵為公、及周承休侯皆為公、地各百里
行幸雍、祠五畤。
夏四月、以大司馬票騎將軍為大司馬、罷將軍官。御史大夫為大司空、封為列侯。益大司馬・大司空奉如丞相。
秋八月庚戌、中山王興薨。
冬十一月、立楚孝王孫景為定陶王。
定陵侯淳于長大逆不道、下獄死。廷尉孔光使持節賜貴人許氏藥、飲藥死。
十二月、罷部刺史、更置州牧、秩二千石。
(『漢書』巻十、成帝紀


綏和元年。



重大な事が次々決められている年である。




まず、皇太子が決められた。

孝哀皇帝、元帝庶孫、定陶恭王子也。母曰丁姫。年三歳嗣立為王、長好文辭法律。
元延四年入朝、盡從傅・相・中尉。時成帝少弟中山孝王亦來朝、獨從傅。上怪之、以問定陶王、對曰「令、諸侯王朝、得從其國二千石。傅・相・中尉皆國二千石、故盡從之。」上令誦詩、通習、能説。他日問中山王「獨從傅在何法令?」不能對。令誦尚書、又廢。及賜食於前、後飽。起下、韈係解。成帝由此以為不能、而賢定陶王、數稱其材。
時王祖母傅太后隨王來朝、私賂遺上所幸趙昭儀及帝舅票騎將軍曲陽侯王根。昭儀及根見上亡子、亦欲豫自結為長久計、皆更稱定陶王、勸帝以為嗣。成帝亦自美其材、為加元服而遣之、時年十七矣。
明年、使執金吾任宏守大鴻臚、持節徴定陶王、立為皇太子。
(『漢書』巻十一、哀帝紀)


皇太子となった劉欣は元帝が当時の皇太子(成帝)に代えて皇太子にしようと考えた劉康の子という、ある意味因縁のある人物だが、成帝は自らに後継ぎが産まれない事からついに決断した。


後に哀帝と諡される皇帝である。




そして、既にいた「周王の子孫」に続き、「殷王の子孫」にも列侯の地位が与えられた。


初、武帝時、始封周後姫嘉為周子南君、至元帝時、尊周子南君為周承休侯、位次諸侯王。使諸大夫博士求殷後、分散為十餘姓、郡國往往得其大家、推求子孫、絶不能紀。時匡衡議以為「王者存二王後、所以尊其先王而通三統也。其犯誅絶之罪者絶、而更封他親為始封君、上承其王者之始祖。春秋之義、諸侯不能守其社稷者絶。今宋國已不守其統而失國矣、則宜更立殷後為始封君、而上承湯統、非當繼宋之絶侯也、宜明得殷後而已。今之故宋、推求其嫡、久遠不可得。雖得其嫡、嫡之先已絶、不當得立。禮記孔子曰『丘、殷人也。』先師所共傳、宜以孔子世為湯後。」上以其語不經、遂見寢。至成帝時、梅福復言宜封孔子後以奉湯祀。綏和元年、立二王後、推迹古文、以左氏・穀梁・世本・禮記相明、遂下詔封孔子世為殷紹嘉公。
(『漢書』巻六十七、梅福伝)


なぜか、孔子こと孔丘先生の子孫が「殷王の子孫」として列侯(後に公)となった。


「殷王の子孫が封建された宋は途絶えた国だから適さない。かといって殷王の子孫はあまりに古すぎて分からない。その点、孔丘先生は自分を「殷の人だ」と言っていたから殷王の子孫として封建するにふさわしい」という、ちょっとじゃなく飛躍があるように思える理論によって、ついに孔丘先生の子孫は、子孫というだけで列侯になったのであった。




更にこの年、「三公制」と「州牧制」が始まった。


初(何)武為九卿時、奏言宜置三公官、又與(翟)方進共奏罷刺史、更置州牧、後皆復復故、語在朱博傳。
(『漢書』巻八十六、何武伝)

初、漢興襲秦官、置丞相・御史大夫・太尉。至武帝罷太尉、始置大司馬以冠將軍之號、非有印綬官屬也。
及成帝時、何武為九卿、建言「古者民樸事約、國之輔佐必得賢聖、然猶則天三光、備三公官、各有分職。今末俗之弊、政事煩多、宰相之材不能及古、而丞相獨兼三公之事、所以久廢而不治也。宜建三公官、定卿大夫之任、分職授政、以考功效。」其後上以問師安昌侯張禹、禹以為然。時曲陽侯王根為大司馬票騎將軍、而何武為御史大夫
於是上賜曲陽侯根大司馬印綬、置官屬、罷票騎將軍官、以御史大夫何武為大司空、封列侯、皆筯奉如丞相、以備三公官焉。
(『漢書』巻八十三、朱博伝)


これらはどちらも当時は御史大夫となっていた何武が建言したものという。何武は丞相翟方進と仲が良かったそうなので、お友達内閣による丞相案件とか言っておけばいいのかもしれない。



「三公制」によって御史大夫の地位が引き上げられ、また大司馬は軍事のトップたる地位は変わらないにしても「将軍」が外れた。



また「州牧制」はそれまでの「太守より地位が低い刺史が監察弾劾する」事がねじれ現象として問題視された結果、太守とほぼ同格の州牧が置かれるようになったものである。



これらは、どちらも当時の政治や行政が激変するものではなかったのかもしれないが、少しずつ後の時代の制度に近づいていく大きな契機になっていた、という事は言えるのではないだろうか。





そして、皇后の地位から降ろされていた許氏がついに「始末」される。


皇太子を立てた事と合わせ、「次の時代に禍根を残さない」ための措置というのが真の理由だったのかもしれない。生きていたら元皇后を引っ張り出そうとする輩が出てこないとも限らない。