『漢書』文帝紀を読んでみよう:その7

その6(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171008/1507388574)の続き。




春正月丁亥、詔曰「夫農、天下之本也、其開藉田、朕親率耕、以給宗廟粢盛。民讁作縣官及貸種食未入、入未備者、皆赦之。」
三月、有司請立皇子為諸侯王。
詔曰「前趙幽王幽死、朕甚憐之、已立其太子遂為趙王。遂弟辟彊及齊悼惠王子朱虚侯章・東牟侯興居有功、可王。」乃立辟彊為河間王、章為城陽王、興居為濟北王。因立皇子武為代王、參為太原王、揖為梁王。
五月、詔曰「古之治天下、朝有進善之旌・誹謗之木、所以通治道而來諫者也。今法有誹謗訞言之罪、是使衆臣不敢盡情、而上無由聞過失也。將何以來遠方之賢良?其除之。民或祝詛上、以相約而後相謾、吏以為大逆、其有他言、吏又以為誹謗。此細民之愚、無知抵死、朕甚不取。自今以來、有犯此者勿聽治。」
九月、初與郡守為銅虎符・竹使符。
詔曰「農、天下之大本也、民所恃以生也、而民或不務本而事末、故生不遂。朕憂其然、故今茲親率羣臣農以勸之。其賜天下民今年田租之半。」
(『漢書』巻四、文帝紀

文帝前2年、田租を半分にしたり、「誹謗訞言」の罪を廃止したりといった政策を打ち出す文帝。



また、呂后時代に呂氏のために死んだ趙幽王(文帝の兄弟)の子をもう一人王に取り立てたり、呂氏誅滅に功績のあった朱虚侯劉章らを王にしたり、といったこともあった。



ただし、同時に文帝自身の子を自分の旧領や要地に封建するのは文帝らしいしたたかさである。というか、本来これは皇子を諸侯王にしたい文帝が他の皇族も一緒に諸侯王にすることで批判をそらそうという措置なのだろう。


始大臣誅呂氏時、朱虚侯功尤大、許盡以趙地王朱虚侯、盡以梁地王東牟侯。及孝文帝立、聞朱虚・東牟之初欲立齊王、故絀其功。及二年、王諸子、乃割齊二郡以王章・興居。章・興居自以失職奪功。
(『史記』巻五十二、斉悼恵王世家)


なお、呂氏を打倒する際、大臣たち(陳平や周勃らの事だろう)は朱虚侯劉章・東牟侯劉興居兄弟(斉王の弟たち)に趙王・梁王を与えるという密約を結んでいたが、彼らが兄斉王を皇帝にしようとしたことから与えられなかったのだ、という。


二人とも王にはなっているが、その領土は本来なら兄の領土のはずの土地の一部であるから、領土も狭いし、逆に斉王の領土削減に使われてしまったようなものである。



まあ、つまりは大臣たちにまんまと騙されたのである。




また、「銅虎符・竹使符」というのは、中央が郡に軍の編成と出陣を命じるための「割符」であるという。中央が片方を持ち、有事の際に使者が郡にそれを持って行って郡にあるもう片方と合わせることで出撃命令となる。逆に言うとこれによらない出兵は反乱だという事である。



ただ、常に一定数の兵が郡に常駐していたようなので、この「銅虎符・竹使符」によって命令されるのはその常備軍ではなく予備役も動員するガチな戦闘態勢の事なのだろう。たぶん。




正月、上曰「農、天下之本、其開籍田、朕親率耕、以給宗廟粢盛。」
三月、有司請立皇子為諸侯王。
上曰「趙幽王幽死、朕甚憐之、已立其長子遂為趙王。遂弟辟彊及齊悼惠王子朱虚侯章・東牟侯興居有功、可王。」乃立趙幽王少子辟彊為河輭王、以齊劇郡立朱虚侯為城陽王、立東牟侯為濟北王、皇子武為代王、子參為太原王、子揖為梁王。
上曰「古之治天下、朝有進善之旌、誹謗之木、所以通治道而來諫者。今法有誹謗妖言之罪、是使衆臣不敢盡情、而上無由聞過失也。將何以來遠方之賢良?其除之。民或祝詛上以相約結而後相謾、吏以為大逆、其有他言、而吏又以為誹謗。此細民之愚無知抵死、朕甚不取。自今以來、有犯此者勿聽治。」
九月、初與郡國守相為銅虎符・竹使符。
(『史記』巻十、孝文本紀)

史記』本紀も大きくは変わらないが、違いもある。




特に朱虚侯らについて「以齊劇郡立朱虚侯為城陽王、立東牟侯為濟北王」と、彼らが王になった郡が「劇郡」であると明記されているのは興味深い。



「劇郡」とは治めにくい郡を言うらしい。



つまり趙や梁といった大国まるごとでないばかりか、斉の領内、しかも敢えて治めにくいところを選んで与えられたということなのだ。



領土を減らされた斉王、約束を破られた朱虚侯・東牟侯、共に遺恨が生じるような措置であったのである。