『漢書』宣帝紀を読んでみよう:その19

その18(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180223/1519311707)の続き。




五鳳元年春正月、行幸甘泉、郊泰畤。
皇太子冠。皇太后賜丞相・將軍・列侯・中二千石帛、人百匹、大夫人八十匹、夫人六十匹。又賜列侯嗣子爵五大夫、男子為父後者爵一級。
夏、赦徒作杜陵者。
冬十二月乙酉朔、日有蝕之。
左馮翊韓延壽有罪、棄市。
二年春三月、行幸雍、祠五畤。
夏四月己丑、大司馬車騎將軍(韓)筯薨。
秋八月、詔曰「夫婚姻之禮、人倫之大者也。酒食之會、所以行禮樂也。今郡國二千石或擅為苛禁、禁民嫁娶不得具酒食相賀召。由是廢郷黨之禮、令民亡所樂、非所以導民也。詩不云乎?『民之失徳、乾餱以愆。』勿行苛政。」
冬十一月、匈奴呼遬累單于帥衆來降、封為列侯。
十二月、平通侯楊綠坐前為光祿勳有罪、免為庶人。不悔過、怨望、大逆不道、要斬。
(『漢書』巻八、宣帝紀

五鳳元年、2年。




匈奴の呼遬累なる人物については、『漢書匈奴伝下では単于であったようには読めないが、当時は単于乱立時代なので、実際単于を名乗っていたのかもしれない。どちらにしろ、匈奴内でかなりの勢力と地位にあったはずの人物が漢王朝に手勢ごと降伏したということである。





楊綠、処刑。丞相楊敞の子であるという事以上に、司馬遷の外孫という事の方で有名な人物である。



霍氏の乱を潰した功労者の一人であったため列侯の地位を与えられていたが、宣帝の寵臣の一人戴長楽との弾劾合戦で官位を失い、その後「縣官不足為盡力」(皇帝は力を尽くして仕えるに足りる人物ではない)などといった恨み言を吐いていたという咎で処刑された。

(司馬)遷既死後、其書稍出。宣帝時、遷外孫平通侯楊綠祖述其書、遂宣布焉。
(『漢書』巻六十二、司馬遷伝)

司馬遷の『史記』を広めるのに一役買ったのがこの楊綠であったという。ただし、彼以前から『史記』は世に出始めていたと書かれており、楊綠以前も一切世に伝わっていなかった訳ではない。