『漢書』文帝紀を読んでみよう:その9

その8(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171010/1507562937)の続き。




四年冬十二月、丞相灌嬰薨。
夏五月、復諸劉有屬籍、家無所與。賜諸侯王子邑各二千戸。
秋九月、封齊悼惠王子七人為列侯。
絳侯周勃有罪、逮詣廷尉詔獄。
作顧成廟。
五年春二月、地震
夏四月、除盜鑄錢令。更造四銖錢。
(『漢書』巻四、文帝紀

文帝前4年、前5年。




今度は丞相潅嬰が死去。
去年は普通に軍を指揮していたんじゃないの?と思わないでもないが、どんな死に方かも分からないから何とも言えない。



また劉氏への「復」=徭役免除が始まる。これがないというのは当然相当な優遇である。そうでない者は実際に徭役に従事するか、従事者を雇う相当額を支払うかしなければならなかったのだ。


歳餘、毎河東守尉行縣至絳、絳侯勃自畏恐誅、常被甲、令家人持兵以見之。
其後人有上書告勃欲反、下廷尉。廷尉下其事長安、逮捕勃治之。勃恐、不知置辭。吏稍侵辱之。勃以千金與獄吏、獄吏乃書牘背示之曰「以公主為證」。公主者、孝文帝女也、勃太子勝之尚之、故獄吏教引為證。勃之益封受賜、盡以予薄昭。及繫急、薄昭為言薄太后太后亦以為無反事。文帝朝、太后以冒絮提文帝、曰「絳侯綰皇帝璽、將兵於北軍、不以此時反、今居一小縣、顧欲反邪!」文帝既見絳侯獄辭、乃謝曰「吏方驗而出之。」於是使使持節赦絳侯、復爵邑。
絳侯既出曰「吾嘗將百萬軍、然安知獄吏之貴乎!」
(『史記』巻五十七、絳侯周勃世家)

周勃逮捕。これについては、周勃が誅殺を極度に恐れていたことが逆に謀反の疑いと通報されたのだ、という。



何しろ斉王、陳平、城陽王(朱虚侯)、潅嬰といった呂氏誅滅に深くかかわった者が偶然の病死にしろ次々死んでいるし、官位も無く中央を追われた身であるから、孤立して殺されるのではないかと思うのも無理はない。





また「四銖銭」とは「半両」と書かれている、いわゆる「四銖半両銭」である。これを民が鋳造しても良いものとしたのだ。





なお、『史記』孝文本紀は、文帝前4年、前5年に係る記事が無い。手抜きしているわけではなく実際無いのだから仕方ない。