『漢書』文帝紀を読んでみよう:その3

その2(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20170930/1506697436)の続き。




元年冬十月辛亥、皇帝見于高廟。
遣車騎將軍薄昭迎皇太后于代。
詔曰「前呂産自置為相國、呂祿為上將軍、擅遣將軍灌嬰將兵撃齊、欲代劉氏。嬰留滎陽、與諸侯合謀以誅呂氏。呂産欲為不善、丞相平與太尉勃等謀奪産等軍。朱虚侯章首先捕斬産。太尉勃身率襄平侯通持節承詔入北軍。典客揭奪呂祿印。其益封太尉勃邑萬戸、賜金五千斤。丞相平・將軍嬰邑各三千戸、金二千斤。朱虚侯章・襄平侯通邑各二千戸、金千斤。封典客揭為陽信侯、賜金千斤。」
十二月、立趙幽王子遂為趙王、徙琅邪王澤為燕王。呂氏所奪齊楚地皆歸之。
盡除收帑相坐律令
(『漢書』巻四、文帝紀

文帝の論功行賞。呂氏を滅ぼす上で中心的な働きをした者たちに恩賞を与えた。




また、琅邪王劉沢を燕王にするというのも一種の論功行賞であろう。


劉沢は文帝即位において重要な役割を果たした(というか斉王を皇帝にさせなかった)人物である。おそらく燕王の方が領土は大きかったはずであるから、斉の領土を斉王に返すという建前と劉沢への恩賞を両立させた措置なのだろう。ちなみにそれまで燕国は呂氏が王になっていた。



また、文帝が秦以来の連坐制(犯罪者の家族を奴隷とする)を撤廃したことも記されている。ただ、もしかすると謀反などの重罪に限っては残されたのかもしれないが。



孝文皇帝元年十月庚戌、徙立故琅邪王澤為燕王。
辛亥、皇帝即阼、謁高廟。右丞相(陳)平徙為左丞相、太尉(周)勃為右丞相、大將軍灌嬰為太尉。諸呂所奪齊楚故地、皆復與之。
壬子、遣車騎將軍薄昭迎皇太后于代。
皇帝曰「呂産自置為相國、呂祿為上將軍、擅矯遣灌將軍嬰將兵撃齊、欲代劉氏、嬰留滎陽弗撃、與諸侯合謀以誅呂氏。呂産欲為不善、丞相陳平與太尉周勃謀奪呂産等軍。朱虚侯劉章首先捕呂産等。太尉身率襄平侯通持節承詔入北軍。典客劉揭身奪趙王呂祿印。益封太尉勃萬戸、賜金五千斤。丞相陳平・灌將軍嬰邑各三千戸、金二千斤。朱虚侯劉章・襄平侯通・東牟侯劉興居邑各二千戸、金千斤。封典客揭為陽信侯、賜金千斤。」
十二月、上曰「法者、治之正也、所以禁暴而率善人也。今犯法已論、而使毋罪之父母妻子同産坐之、及為收帑、朕甚不取。其議之。」有司皆曰「民不能自治、故為法以禁之。相坐坐收、所以累其心、使重犯法、所從來遠矣。如故便。」上曰「朕聞法正則民慤、罪當則民從。且夫牧民而導之善者、吏也。其既不能導、又以不正之法罪之、是反害於民為暴者也。何以禁之?朕未見其便、其孰計之。」有司皆曰「陛下加大惠、徳甚盛、非臣等所及也。請奉詔書、除收帑諸相坐律令。」
(『史記』巻十、孝文本紀)

史記』は記事の順番が違うところがあるのと、連坐制度廃止の経緯が詳しいところが『漢書』との違いである。



連坐制については担当の大臣、官僚たちは制度継続を答申したのにもかかわらず文帝が差し戻して廃止を強行した格好のように見える。



出来レースであった可能性も無くもないが、大臣すなわち歴戦の強者や昔からいる官僚たち相手に退かずに廃止させるあたり、やはり二十代の新米皇帝の風格ではない。