『漢書』文帝紀を読んでみよう:その6

その5(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171005/1507129876)の続き。




二年冬十月、丞相陳平薨。
詔曰「朕聞古者諸侯建國千餘、各守其地、以時入貢、民不勞苦、上下驩欣、靡有違徳。今列侯多居長安、邑遠、吏卒給輸費苦、而列侯亦無繇教訓其民。其令列侯之國、為吏及詔所止者、遣太子。」
十一月癸卯晦、日有食之。
詔曰「朕聞之、天生民、為之置君以養治之。人主不徳、布政不均、則天示之災以戒不治。乃十一月晦、日有食之、適見于天、災孰大焉!朕獲保宗廟、以微眇之身託于士民君王之上、天下治亂、在予一人、唯二三執政猶吾股肱也。朕下不能治育羣生、上以累三光之明,其不徳大矣。令至、其悉思朕之過失、及知見之所不及、匄以啟告朕。及舉賢良方正能直言極諫者、以匡朕之不逮。因各敕以職任、務省繇費以便民。朕既不能遠徳、故𢢀然念外人之有非、是以設備未息。今縱不能罷邊屯戍、又飭兵厚衛、其罷衛將軍軍。太僕見馬遺財足、餘皆以給傳置。」
(『漢書』巻四、文帝紀

文帝(前)2年。(前)についてはいずれ意味を説明することになるだろう。



陳平が単独の丞相になったと思ったらすぐに死んでしまった。まあ既にそれなりの高齢だったのだろう。ちなみにこれによって周勃が丞相になっている。



そして、列侯を原則領土へ赴任させる命令を出した。高祖の代からの功臣たちを長安から遠ざけたいのかもしれない。



また、日食という天からのヤバイメッセージに対しては、「ワイの悪いところを教えてくれや」と謙虚に話を聞くポーズを示すと共に軍備を削減して兵役や経費を減らすという姿勢を見せる。



「太僕見馬遺財足、餘皆以給傳置」とは、「馬は必要最低限にして後は各地の早馬用に転用するように」ということだろう。馬を多く養おうとすればそれだけ財政的にも労働力的にも負担が多いわけで、それを削減しようということだ。




二年十月、丞相平卒、復以絳侯勃為丞相。
上曰「朕聞古者諸侯建國千餘、各守其地、以時入貢、民不勞苦、上下驩欣、靡有遺徳。今列侯多居長安、邑遠、吏卒給輸費苦、而列侯亦無由教馴其民。其令列侯之國、為吏及詔所止者、遣太子。」
十一月晦、日有食之。十二月望、日又食。
上曰「朕聞之、天生蒸民、為之置君以養治之。人主不徳、布政不均、則天示之以菑、以誡不治。乃十一月晦、日有食之、適見于天、菑孰大焉!朕獲保宗廟、以微眇之身託于兆民君王之上、天下治亂、在朕一人、唯二三執政猶吾股肱也。朕下不能理育羣生、上以累三光之明、其不徳大矣。令至、其悉思朕之過失、及知見思之所不及、匄以告朕。及舉賢良方正能直言極諫者、以匡朕之不逮。因各飭其任職、務省繇費以便民。朕既不能遠徳、故憪然念外人之有非、是以設備未息。今縱不能罷邊屯戍、而又飭兵厚衛、其罷衛將軍軍。太僕見馬遺財足、餘皆以給傳置。」
(『史記』巻十、孝文本紀)

史記』本紀もまあ大体『漢書』本紀と同じ。