『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その33

その32の続き。


四年正月、漢兵得下江王常等以為助兵、撃前隊大夫甄阜・屬正梁丘賜、皆斬之、殺其衆數萬人。
初、京師聞青・徐賊衆數十萬人、訖無文號旌旗表識、咸怪異之。好事者竊言「此豈如古三皇無文書號諡邪?」莽亦心怪、以問羣臣、羣臣莫對。唯嚴尤曰「此不足怪也。自黄帝・湯・武行師、必待部曲旌旗號令、今此無有者、直飢寒羣盜、犬羊相聚、不知為之耳。」莽大説、羣臣盡服。
後漢兵劉伯升起、皆稱將軍、攻城略地、既殺甄阜、移書稱説。莽聞之憂懼。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

  • 地皇四年(紀元23年)

地皇四年正月、漢(劉伯升ら)の兵は下江兵の王常らの助力を得て前隊大夫の甄阜、属正梁丘賜を撃ってどちらも斬首し、その兵数万を殺した。



当初、都では青・徐州の賊数十万が旗などの目印や称号もないままであることを皆で不思議に思っていた。事情通は密かに「これは古の三皇の時代に文書、称号、諡号が無かった時と同じではないですかね・・・」と言っていた。
王莽もまた内心怪しんで群臣に質問したが答える者が無かった。ただ荘尤(厳尤)だけは「これは怪しむことでもございません。黄帝・殷の湯王・周の武王以来、軍隊を動かす時には軍の組織や旗指物や称号が必須でした。今それがないというのは、ただ飢えや寒さから犬や羊が群れを成すように群盗となったのであって、軍の組織を作ることを知らないだけのことなのです」と答えた。
王莽は大いに喜び、群臣も皆その答えに感服した。



その後、漢の劉伯升らが挙兵すると、皆将軍を名乗って城を攻め土地を侵略し、甄阜らを殺すと、文書を送って周囲に伝えた。王莽はそれを聞いて恐れて憂いを感じた。


言っていることが王莽の意に逆らう事が多い荘尤だが、今回は王莽を安心させた・・・と見せかけて、劉伯升らによって「上げてから落とされた」という感じである。



伯升自發舂陵子弟、合七八千人、部署賓客、自稱柱天都部。使宗室劉嘉往誘新市・平林兵王匡・陳牧等、合軍而進、屠長聚及唐子郷、殺湖陽尉、進拔棘陽、因欲攻宛。至小長安、與王莽前隊大夫甄阜・屬正梁丘賜戰。時天密霧、漢軍大敗、姉元・弟仲皆遇害、宗從死者數十人。伯升復收會兵衆、還保棘陽。
阜・賜乗勝、留輜重於藍郷、引精兵十萬南渡黄淳水、臨沘水、阻両川輭為營、絶後橋、示無還心。新巿・平林見漢兵數敗、阜・賜軍大至、各欲解去、伯升甚患之。會下江兵五千餘人至宜秋、乃往為説合從之埶、下江從之。語在王常傳。
伯升於是大饗軍士、設盟約。休卒三日、分為六部、潛師夜起、襲取藍郷。盡獲其輜重。明旦、漢軍自西南攻甄阜、下江兵自東南攻梁丘賜。至食時、賜陳潰、阜軍望見散走、漢兵急追之、却迫黄淳水、斬首溺死者二萬餘人、遂斬阜・賜。
(『後漢書』列伝第四、齊武王縯伝)


劉伯升(劉縯)は「柱天都部」を自称したとあるように、確かにこの集団は早い段階から軍を意識した組織を作っている形跡がある、と言えるかもしれない。



「前隊」とは南陽郡あたりのことで、「属正」は都尉に当たるということなので、漢の官に置き換えると甄阜は南陽太守、梁丘賜は南陽都尉と言う所か。