『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その49

その48の続き。


初、申屠建嘗事崔發為詩、建至、發降之。後復稱説、建令丞相劉賜斬發以徇。史褜・王延・王林・王呉・趙閎亦降、復見殺。
初、諸假號兵人人望封侯。申屠建既斬王憲、又揚言三輔黠共殺其主。吏民惶恐、屬縣屯聚、建等不能下、馳白更始。
二年二月、更始到長安、下詔大赦、非王莽子、他皆除其罪、故王氏宗族得全。
三輔悉平、更始都長安、居長樂宮。府藏完具、獨未央宮燒攻莽三日、死則案堵復故。更始至、歳餘政教不行。
明年夏、赤眉樊崇等衆數十萬人入關、立劉盆子、稱尊號、攻更始、更始降之。赤眉遂燒長安宮室市里、害更始。民飢餓相食、死者數十萬、長安為虚、城中無人行。宗廟園陵皆發掘、唯霸陵・杜陵完。
六月、世祖即位、然後宗廟社稷復立、天下艾安。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

かつて、申屠建は崔発に仕えて『詩経』を学んでおり、申屠建が到着すると崔発は彼に降伏した。その後、また予言を語り漢に従わなかったため、申屠建は丞相劉賜に崔発を斬らせ、見せしめに引きまわした。また史褜・王延・王林・王呉・趙閎も降伏したが殺された。



当初、称号を自称した者たちは列侯に封建されることを望んでいた。しかし申屠建は王憲を殺すと、更に三輔の人々が逆らって君主を殺したと言い募った。三輔の官吏や民は恐れ、属県の人々は群れ集まって服従せず、申屠建は降伏させることができず、急ぎ更始帝に報告した。



更始二年二月、更始帝長安に到着し、詔を下して大赦令を出し、王莽の子供以外は罪を免除した。そのため王氏の一族は助けられた。
三輔は悉く平定され、更始帝長安を都として長楽宮に居住した。宮殿や所蔵された物資は損なわれていなかったが、未央宮だけは三日に渡り王莽を攻めるために焼かれ、王莽が死んで初めて元に戻った。更始帝が来てから一年余り、政治や教化は行われなかった。



明年夏、赤眉の樊崇ら数十万人が函谷関に入り、劉盆子を皇帝に立てて更始帝を攻め、更始帝は降伏した。赤眉は長安市街や宮殿を焼き、更始帝を殺した。民は飢餓に陥り民がお互いを食べ合うほどになり、数十万人の死者が発生し、長安は廃墟となり城内を歩く者もいなくなった。漢の宗廟や陵墓も盗掘に遭ったが、覇陵・杜陵だけは盗掘を免れた。



六月、世祖が即位し、その後宗廟や社稷が復興され、天下は治まり安んじられた。



エピローグ。いろいろあったけど世祖が統一しましためでたし、ということであろう。




「王莽伝」なので王莽死後はこれでいいのだ。