『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その31

その30の続き。


國將哀章謂莽曰「皇祖考黄帝之時、中黄直為將、破殺蚩尤。今臣居中黄直之位、願平山東。」莽遣章馳東、與太師匡并力。
又遣大將軍陽浚守敖倉、司徒王尋將十餘萬屯雒陽填南宮、大司馬董忠養士習射中軍北壘、大司空王邑兼三公之職。
司徒尋初發長安、宿霸昌廐、亡其黄鉞。尋士房揚素狂直、乃哭曰「此經所謂『喪其齊斧』者也!」自劾去。莽撃殺揚。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

国将の哀章が王莽に言った。「皇帝のはるかな祖である黄帝の時、中黄直が将となって蚩尤を討ち取りました。今、私も中黄直の地位におりますので、同じように山東を平定したいと思います」
王莽はそこで哀章を東方へ急がせ、太師王匡と力を合わせるよう命じた。



また大将軍の陽浚に敖倉を守らせ、司徒の王尋に十万の兵を率いて洛陽の南宮に駐屯させ、大司馬の董忠に中軍の北塁において兵士に射撃を習わせ、大司空の王邑に三公の職務を兼ねさせた。



司徒の王尋が長安を出発する際、覇昌厩に宿泊したが、そこで黄鉞を亡くしてしまった。王尋の配下の士である房揚は常軌を逸した直言の士であったが、それを知ると泣いて「これは経書に言う「鋭利な斧を失う」というものだ!」と言い、自らを弾劾して去って行った。
王莽は房揚を殺させた。



廉丹らの敗北を受けて哀章が赤眉の元へ派遣された。ゾーマ軍で言えばバラモスゾンビを外へ派遣するようなもので、この時点で相当な緊急事態である。
ただ問題なのは、哀章は軍事能力が優れているとは到底思えないことだ*1





敖倉や洛陽を守らせるというのは関中に本拠を置く政権からすると定石の一手。




だが軍権、専断権を象徴するはずの黄鉞が失われたという、これ以上無い位の不吉な超常現象が起こるのだった。
まあ実際には誰か王莽政権を良く思わない者たちが隠したのだろう。

*1:予言に自分の名を潜り込ませて地位を得たとされている。