『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その30

その29の続き。


冬、無鹽索盧恢等舉兵反城。廉丹・王匡攻拔之、斬首萬餘級。莽遣中郎將奉璽書勞丹・匡、進爵為公、封吏士有功者十餘人。
赤眉別校董憲等衆數萬人在梁郡、王匡欲進撃之、廉丹以為新拔城罷勞、當且休士養威。
匡不聽、引兵獨進、丹隨之。合戰成昌、兵敗、匡走。丹使吏持其印韍符節付匡曰「小兒可走、吾不可!」遂止、戰死。校尉汝雲・王隆等二十餘人別鬬、聞之、皆曰「廉公已死、吾誰為生?」馳犇賊、皆戰死。
莽傷之、下書曰「惟公多擁選士精兵、衆郡駿馬倉穀帑藏皆得自調、忽於詔策、離其威節、騎馬呵譟、為狂刃所害、烏呼哀哉!賜諡曰果公。」
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

冬、無塩県の索盧恢らが挙兵して城に立てこもった。廉丹・王匡は索盧恢らを討って城を落とし、一万以上の首級を挙げた。王莽は中郎将を派遣して勅命により廉丹・王匡をねぎらい、公爵の地位を与え、功績のあった配下の官吏や兵を封建した。



赤眉の別動隊の将校である董憲らは数万人を率いて梁郡におり、王匡はそちらへ進撃しようと思ったが、廉丹は城を落としたばかりで疲弊しているため、しばらく兵士を休ませるべきと考えた。
だが王匡はそれを聞かず、兵を率いて先を進み、廉丹は後から付いて行った。成昌という所で戦い、王匡は敗走した。
廉丹は官吏に印綬を持たせて王匡に送って「ガキは逃げるがいい。だが私はそんなことはせん」と伝え、その場に留まって戦い、戦死した。校尉の汝雲・王隆ら二十数人も別々に戦っていたが、廉丹の死を知ると、「廉公が既に世を去ったのに、私がどうして生きて行けよう」と言って敵の中に突撃し、皆討ち死にした。



王莽はこれを悼んで命令を下した。「思うに公は数多くの精鋭を率い、多くの郡の軍馬や食料や軍費を自ら調達したが、勅命をおろそかにし、武威を示す節を手放し、馬に乗って叫んで凶刃に倒れることとなった。なんと哀しいことか!「果公」という諡号を下賜する」



「索盧」は姓。後漢初期には東郡の索盧放という儒者がいた(『後漢書』列伝第七十一)。近親ではないだろうが同族なのだろう。




時天下兵起、莽遣更始將軍廉丹討伐山東。丹辟(馮)衍為掾、與倶至定陶。
莽追詔丹曰「倉廩盡矣、府庫空矣、可以怒矣,可以戰矣。將軍受國重任、不捐身於中野、無以報恩塞責。」丹惶恐、夜召衍、以書示之。衍因説丹曰・・・(中略)・・・方今為將軍計、莫若屯據大郡、鎮撫吏士、砥窅其節、百里之内、牛酒日賜、納雄桀之士、詢忠智之謀、要將來之心、待從膻之變、興社稷之利、除萬人之害、則福祿流於無窮、功烈著於不滅。何與軍覆於中原、身膏於草野、功敗名喪、恥及先祖哉?聖人轉禍而為福、智士因敗而為功、願明公深計而無與俗同。」丹不能從。
(『後漢書』列伝第十八上、馮衍伝上)


どうやら、この戦いの前、廉丹は軍費などを費やしながら戦果が十分上がっていないことについて厳しく責任を追及する詔書を受け取っていたらしい。



それに対して廉丹旗下の馮衍は独立を勧めるが、廉丹は採用しなかった。
思うに、王莽の切責によって廉丹は既に状況が詰んでおり、よほどの大功を立てでもしない限り失脚どころか命も危ういと思われる情勢だったのだろう。

だから馮衍は離反を勧めるし、廉丹自身も敗走して戻っては結局王莽に殺されるだろうと感じていたから赤眉に特攻したのだろう*1。どのみち死ぬなら、勇敢に戦って死んだという結果が残る方が子孫のためにはなる。




それにしても、王莽は廉丹に諡号を下賜する詔の中でもキッチリ責任を追究しており、相当腹に据えかねていたのだろう。これではあまり褒賞にならないような気もしないでもないが。

*1:その一方、王匡は王舜の子、すなわち王莽の親族であり、敗走して戻っても誅殺まではされないだろうという計算があったかもしれない。