『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その2

その1の続き。


又按金匱、輔臣皆封拜。
以太傅左輔・驃騎將軍・安陽侯王舜為太師、封安新公。大司徒・就徳侯平晏為太傅、就新公。少阿・羲和・京兆尹・紅休侯劉歆為國師、嘉新公。廣漢梓潼哀章為國將、美新公。是為四輔、位上公。
太保後承・承陽侯甄邯為大司馬、承新公。丕進侯王尋為大司徒、章新公。歩兵將軍・成都侯王邑為大司空、隆新公。是為三公。
大阿右拂・大司空・衛將軍・廣陽侯甄豐為更始將軍、廣新公。京兆王興為衛將軍、奉新公。輕車將軍・成武侯孫建為立國將軍、成新公。京兆王盛為前將軍、崇新公。是為四將。凡十一公。
王興者、故城門令史。王盛者、賣餅。莽按符命求得此姓名十餘人、両人容貌應卜相、徑從布衣登用、以視神焉。餘皆拜為郎。
是日、封拜卿大夫・侍中・尚書官凡數百人。諸劉為郡守、皆徙為諫大夫。
改明光宮為定安館、定安太后居之。以故大鴻臚府為定安公第、皆置門衛使者監領。敕阿乳母不得與語、常在四壁中、至於長大、不能名六畜。後莽以女孫宇子妻之。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)

また王莽は金の箱を確認し、輔弼の臣たちをみな封建、拝命した。



太傅左輔・驃騎将軍・安陽侯王舜を太師に任命し、安新公に封じた。大司徒・就徳侯平晏を太傅に任命し、就新公に封じた。少阿・羲和・京兆尹・紅休侯劉歆を国師に任命し、嘉新公に封じた。広漢郡梓潼県の哀章を国将に任命し、美新公に封じた。これが四輔であり、上公の位であった。
太保後承・承陽侯甄邯を大司馬に任命し、承新公に封じた。丕進侯王尋を大司徒に任命し、章新公に封じた。歩兵将軍・成都侯王邑を大司空に任命し、隆新公に任命した。これが三公である。
大阿右拂・大司空・衛将軍・広陽侯甄豐を更始将軍に任命し、広新公に任命した。京兆尹の人王興を衛将軍に任命し、奉新公に封じた。軽車将軍・成武侯孫建を立国将軍に任命し、成新公に封じた。京兆尹の人王盛を前将軍に任命し、崇新公に封じた。これが四将である。以上十一公であった。
王興は元の城門令史、王盛は餅売りであった。王莽は予言に基づいて同じ姓名の者を探して十数人を見つけ、その中で容貌が人相占いで最も適合したものを選び、一般人より急ぎ登用することで予言の神秘性を演出したのであった。同じ姓名の他の者たちは郎に任命した。



またこの日、大臣、官僚たち、侍中、尚書の官数百人を任命、封建した。
劉氏で太守になっていた者は全員諫大夫に異動させた。




明光宮を定安館と改名し、定安太后の住まいとした。元の大鴻臚の役所を定安公の屋敷とし、門番を置いて皇帝の使者が監督した。乳母に定安公(孺子嬰)と会話しないよう命令し、常に部屋の中から出さずにいたため、成長しても家畜の名前も言えなかった。後に定安公は王宇の娘すなわち王莽の孫娘を妻とした。



四輔・三公・四将の十一人が出揃った。



「○新公」で統一するこだわりがとても王莽らしい。





王尋はこの後ずっと大司徒だったようで、後に有名な戦の当事者の一人になった。このシリーズが続けばいずれそこに到達するだろう。


そのほか、哀章・王興・王盛以外は基本既に出てきている王莽の愉快な仲間たちであり、つまりは王莽のお友達内閣ということだ。論功行賞、と言うこともできるだろう。





定安太后というのは王莽の娘であるところの平帝の皇后王氏のことである。


定安公すなわち孺子嬰は満足な教育すら受けさせてもらえなかったようだ。その妻になった王莽の孫というのも謀反人として死んだ王宇の子なので、ぶっちゃけ王莽として重視していなかったのが丸わかりである。