『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その36

その35の続き。


又詔、「太師王匡・國將哀章・司命孔仁・兗州牧壽良・卒正王閎・揚州牧李聖亟進所部州郡兵凡三十萬衆、迫措青・徐盜賊。納言將軍嚴尤・秩宗將軍陳茂・車騎將軍王巡・左隊大夫王呉亟進所部州郡兵凡十萬衆、迫措前隊醜虜。明告以生活丹青之信、復迷惑不解散、皆并力合撃、殄滅之矣!大司空隆新公、宗室戚屬、前以虎牙將軍東指則反虜破壞、西撃則逆賊靡碎、此乃新室威寶之臣也。如黠賊不解散、將遣大司空將百萬之師征伐劋絶之矣!」
遣七公幹士隗囂等七十二人分下赦令曉諭云。囂等既出、因逃亡矣。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

またこのような詔を出した。「太師王匡、国将哀章、司命孔仁、兗州牧寿良、卒正王閎、揚州牧李聖は急ぎそれぞれ管轄する郡兵計三十万人を率いて青州・徐州の群盗を捕えよ。納言将軍荘尤(厳尤)、秩宗将軍陳茂、車騎将軍王巡、左隊大夫王呉は急ぎそれぞれ管轄する郡兵計十万人を率いて前隊(南陽)の薄汚い反乱者たちを捕えよ。降伏した者は命を助けることを通告し、それでもなお狂ったままで解散しない者については皆力を合わせて攻撃し全滅させよ。大司空隆新公は宗室の一員であり、以前虎牙将軍となって東方の反乱者を討ち滅ぼし、西方の逆賊を撃破した。まさに新王朝の宝と言ってもいい臣下である。もし賊どもが解散しなければ、大司空に百万の兵を率い征伐させて全滅させるであろう」



そこで七公の重臣である隗囂ら七十二人を分担して派遣してこの大赦令を布告させた。隗囂らは派遣されるとそのまま逃亡してしまった。



ここに出てくる「卒正王閎」は、王莽の従兄弟前漢末に大事も成し遂げた王閎なのだろう。

その王閎は「東郡太守」になったと書かれているので、東郡の卒正(卒正は太守に相当する)なのかもしれない。





隗囂登場。

隗囂字季孟、天水成紀人也。少仕州郡。王莽國師劉歆引囂為士。歆死、囂歸郷里。
(『後漢書』列伝第三、隗囂)


十中八九同一人物だが、『後漢書』列伝においては、彼は上司劉歆が死んでから郷里に戻ったかのように記されている。しかし上記のとおり『漢書』王莽伝においては上司劉歆の動向に関係なく逃げたかのようである。


どちらが正しいのか、それとも使者となった後に劉歆の死を聞いて初めて逃亡したが、上記記事はそこを省略しただけなのか。




とにかく、いよいよ沈没する船から目ざとい動物が逃げ出し始めている、といった感じの様相を見せ始めた王莽政権であった。