爵位の法則性

帝高(竇)融功、下詔以安豐・陽泉・蓼・安風四縣封融為安豐侯、弟友為顯親侯。遂以次封諸將帥。武鋒將軍竺曾為助義侯、武威太守梁統為成義侯、張掖太守史苞為襃義侯、金城太守厙鈞為輔義侯、酒泉太守辛肜為扶義侯。
(『後漢書』列伝第十三、竇融伝)

河西の竇融が後漢に臣従した後、竇融の元にいた太守たちは「助義侯」「成義侯」「襃義侯」「輔義侯」「扶義侯」といった爵位を賜ったという。


於是封者高為侯・伯、次為子・男、當賜爵關内侯者更名曰附城、凡數百人。撃西海者以「羌」為號、槐里以「武」為號、翟義以「虜」為號。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

以太傅・左輔・驃騎將軍安陽侯王舜為太師、封安新公。大司徒就徳侯平晏為太傅、就新公。少阿・羲和・京兆尹紅休侯劉歆為國師、嘉新公。廣漢梓潼哀章為國將、美新公。是為四輔、位上公。太保・後承承陽侯甄邯為大司馬、承新公。丕進侯王尋為大司徒、章新公。歩兵將軍成都侯王邑為大司空、隆新公。是為三公。大阿・右拂・大司空・衛將軍廣陽侯甄豐為更始將軍、廣新公。京兆王興為衛將軍、奉新公。輕車將軍成武侯孫建為立國將軍、成新公。京兆王盛為前將軍、崇新公。是為四將。凡十一公。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝中)

この爵位の名前について字を統一し、全て同じ法則性で命名するのは王莽の得意技だった。後漢になっても同じ傾向が続いているわけだ。




当時は色々なところでまだ王莽の影響が色濃かったのかもしれない。あるいは、王莽だけではなく、当時の官僚や学者たちに共通する流行だったのだろうか。