『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その41

その40の続き。


九月、東郡太守翟義都試、勒車騎、因發犇命、立嚴郷侯劉信為天子、移檄郡國、言莽「毒殺平帝、攝天子位、欲絶漢室、今共行天罰誅莽。」郡國疑惑、衆十餘萬。
莽惶懼不能食、晝夜抱孺子告禱郊廟、放大誥作策、遣諫大夫桓譚等班於天下、諭以攝位當反政孺子之意。
遣王邑・孫建等八將軍撃義、分屯諸關、守阸塞。
槐里男子趙明・霍鴻等起兵、以和翟義、相與謀曰「諸將精兵悉東、京師空、可攻長安。」衆稍多、至且十萬人、莽恐、遣將軍王奇・王級將兵拒之。以太保甄邯為大將軍、受鉞高廟、領天下兵、左杖節、右把鉞、屯城外。王舜・甄豐晝夜循行殿中。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

九月、東郡太守の翟義が郡の都試の際に戦車や騎兵を統率し、緊急徴兵を行い、厳郷侯劉信を天子に立て、郡国に「平帝を毒殺し、天子の位を代行して漢王朝を断絶しようとしている。今こそ共に天の罰を与えて王莽を誅殺すべし」と檄を飛ばした。郡国は惑わされて十万以上の人が集まった。



王莽は恐れて食事も取れず、日夜孺子嬰を抱いて祖先に対して祈祷して、『周書』大誥に倣った策書を作り、諌大夫桓譚らを遣わして天下に頒布させ、天子代行の地位は孺子嬰に返還するということを明らかにした。



王邑・孫建ら八人の将軍を派遣して翟義を討たさせ、関所や要害の地を守らせた。



槐里県の男子趙明・霍鴻が兵を起こして翟義に同調し、「諸将や精兵は東の翟義の元へ行ったので都は空っぽであるから長安を攻めることができる」と企んだ。その集団は膨れ上がって十万人になった。



王莽は恐れて将軍王奇・王級に兵を率いて彼らを阻ませた。



太保甄邯を大将軍として高祖廟で鉞を与え、天下の兵を統率させ、左に節、右に鉞を手にし、城外に駐屯させた。王舜・甄豊には昼夜殿中を見回りさせた。



王莽即位前の最大の危機、翟義の乱。


遂與東郡都尉劉宇・嚴郷侯劉信・信弟武平侯劉璜結謀。及東郡王孫慶素有勇略、以明兵法、徴在京師、(翟)義乃詐移書以重罪傳逮慶。
於是以九月都試日斬觀令、因勒其車騎材官士、募郡中勇敢、部署將帥。嚴郷侯信者東平王雲子也。雲誅死、信兄開明嗣為王、薨、無子、而信子匡復立為王、故義舉兵并東平、立信為天子。
義自號大司馬柱天大將軍、以東平王傅蘇隆為丞相、中尉皋丹為御史大夫、移檄郡國、言莽鴆殺孝平皇帝、矯攝尊號、今天子已立、共行天罰。郡國皆震、比至山陽、衆十餘萬。
(『漢書』巻八十四、翟義伝)


翟義は成帝時代に丞相を長く務めた儒者翟方進の子で、この時東郡太守であった。東平王関係者などと共謀し、東平王になれなかった男劉信を皇帝に立てて自分は大司馬・柱天大将軍を名乗った。


王孫慶の名はまた出てくるはずなので憶えておこう。



このあたりの事情や王莽側の将軍についても実は『漢書』翟義伝が詳しい。劉歆は南陽郡宛に駐屯したとか。




槐里というと右扶風、つまり三輔すなわち首都圏にある県である。


つまり趙明・霍鴻の乱は首都近辺で起こっているのである。王莽らが最高級の戒厳体制を敷くのも当然であろう。





なお、翟義は王莽が平帝を殺したと主張している。



赤子皇帝(皇太子)の代理として事実上の皇帝になるという体制なので、成長してきて邪魔な平帝を殺したに違いないと思われたのだろうし、誰もが考えたくなることだろう。



ただ、前にも言ったかもしれないが、平帝がいた時に既に王莽による天子の代理が唱えられているし、王莽にとっても平帝がいなくなるとこのように政権の不安定を生みかねないので、必ずしも平帝暗殺が王莽にとって一方的に有利とばかりも言えない気もする。


というわけで、王莽が平帝の死去をも利用したのは事実だが、暗殺までしたのかどうかについてははっきり言えないんじゃないかな、と思う次第である。