『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その13

その12の続き。


是月、杜陵便殿乗輿虎文衣廢臧在室匣中者出、自樹立外堂上、良久乃委地。吏卒見者以聞、莽惡之、下書曰「寶黄廝赤、其令郎從官皆衣絳。」
望氣為數者多言有土功象、莽又見四方盜賊多、欲視為自安能建萬世之基者、乃下書曰「予受命遭陽九之戹、百六之會、府帑空虚、百姓匱乏、宗廟未修、且祫祭於明堂太廟、夙夜永念、非敢寧息。深惟吉昌莫良於今年、予乃卜波水之北、郎池之南、惟玉食。予又卜金水之南、明堂之西、亦惟玉食。予將親築焉。」
於是遂營長安城南、提封百頃。
九月甲申、莽立載行視、親舉築三下。司徒王尋・大司空王邑持節、及侍中常侍執法杜林等數十人將作。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

この月、杜陵の御殿の馬車や虎模様の衣服で使われず部屋の中の箱にしまわれていたものがひとりでに外に出て、外の座敷の上に自ら立って、しばらくして地に倒れた。官吏や兵卒で見た者がそれを報告し、王莽は不快に思って命令を下した。「黄色は宝物の色、赤は雑用の色である。郎、従官の衣服の色を赤とせよ」



気の流れを読む者たちの多くが土徳を象徴するものについて述べた。王莽は四方に群盗が多く、とこしえに続く王朝の基礎を立てて安定させることを示そうと思い、命令を下した。
「予は天命を受けて陽の気が極まる危機、百六年の危険に遭遇し、倉庫は空っぽになり、人々は窮乏し、天子の宗廟も完成しないためにしばらく明堂の太廟で祭祀を行い、日夜いつまでも考えを巡らし、休まる時がなかった。深く思うに、今年以上に吉兆の年はなかったので、予は波水の北、郎池の南で占卜を行い、吉兆を得た。予はまた金水の南、明堂の西で占卜を行い、また吉兆を得た。予はまさに自ら宗廟を建築しようと思う。」
そこで長安城の南でおよそ百頃の土地に造営を始めた。



九月甲申、王莽は自ら工事現場に赴き、手ずから三度建築を行った。大司徒王尋、大司空王邑が節を持ち、及び侍中常侍執法杜林ら数十人が工事を監督した。


杜陵というのは漢の宣帝陵のある県である。

そこで皇帝の衣装、道具が勝手に動き出したという怪異が起こったということらしいので、当時の人々は「宣帝がお怒りだ」みたいに連想したことだろう。

だからこそ王莽は敢えて漢王朝の象徴である赤い色を貶めることで、今はもう漢ではないのだ、と印象付ける必要があったのではなかろうか。




王莽、宗廟作りを始める。



占いでは今年作るのが大吉です!ということらしい。



敢えて大規模な宗廟作りをすることで権威付けして乱を抑えようとしたのかもしれないし、公共事業による失業者対策なのだ、などと言う余地もあるかもしれない。





ここに出てくる杜林は、やっぱり『後漢書』に立伝までされている杜林なんじゃないかなあ・・・。