『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その12

その11の続き。


七月、大風毀王路堂。
復下書曰「乃壬午餔時、有列風雷雨發屋折木之變、予甚弁焉、予甚栗焉、予甚恐焉。伏念一旬、迷乃解矣。昔符命文立安為新遷王、臨國雒陽、為統義陽王。是時予在攝假、謙不敢當、而以為公。其後金匱文至、議者皆曰『臨國雒陽為統、謂據土中為新室統也、宜為皇太子。』自此後、臨久病、雖瘳不平、朝見挈茵輿行。見王路堂者、張於西廂及後閣更衣中、又以皇后被疾、臨且去本就舍、妃妾在東永巷。壬午、列風毀王路西廂及後閣更衣中室。昭寧堂池東南楡樹大十圍、東僵、撃東閣、閣即東永巷之西垣也。皆破折瓦壊、發屋拔木、予甚驚焉。又候官奏月犯心前星、厥有占、予甚憂之。伏念紫閣圖文、太一・黄帝皆得瑞以僊、後世襃主當登終南山。所謂新遷王者、乃太一新遷之後也。統義陽王乃用五統以禮義登陽上遷之後也。臨有兄而稱太子、名不正。宣尼公曰『名不正、則言不順、至於刑罰不中、民無錯手足。』惟即位以來、陰陽未和、風雨不時、數遇枯旱蝗螟為災、穀稼鮮耗、百姓苦飢、蠻夷猾夏、寇賊姦宄、人民正營、無所錯手足。深惟厥咎、在名不正焉。其立安為新遷王、臨為統義陽王、幾以保全二子、子孫千億、外攘四夷、内安中國焉。」
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

七月、大風が王路堂に被害を与えた。



王莽は命令を下した。
「壬午の夕食時、大風と雷雨が屋根を吹き飛ばし木を折るという異変が起こり、予は恐れおののいた。しかしながら伏して十日あまり考えた末に迷いは消えた。
昔、予言の文に「安を立てて新遷王とし、臨は洛陽を国として統義陽王とする」というものがあった。その時、予はまだ天子の代行、仮の天子の地位にあり、謙譲して自らそれに当てることはせず、公とした。
その後、金の箱の予言が出現すると、議論の場でみなが「臨は洛陽を国として統べる」とは、「土徳たる中央である洛陽において新王朝が統べる」という意味であると言っていた。それより後、臨は長らく病気になり、治っても体調が悪く、朝会に参加する時も敷物で運ばれていた。
王路堂では西廂と後閣の更衣の中に帳を張り、また皇后が病気であったので、臨は本来の住居ではなく皇后の看病のために寝泊まりし、妻妾は東永巷にいた。
壬午、大風が王路堂の西廂と後閣の更衣の中の部屋を損傷した。昭寧堂の池の東南の大きさ十囲いの楡の木が東に倒れ、東閣を傷つけた。東閣とは東永巷の西の垣根に当たる。皆折れて瓦も壊れ、屋根が飛び木が折れ、予は大変驚いた。
また天文を見る役人が上奏したところでは、月が心の前星の領域に入っており、その占いの内容に予は大変心を痛めていた。
紫閣図の予言の文を考察してみるに、泰一・黄帝は瑞祥を得て仙人となったので、後世の偉大な君主は終南山に登るべしとの内容である。「新遷王」というのは、泰一が新たに仙人となって後の事である。「統義陽王」というのは、五行を統べて礼と義によって仙人になって後の事である。
しかし臨には兄がいるのに太子となっており、大義名分の上で正しくない。孔丘先生こと宣尼公は「大義名分が正しくなければ言葉が正しくならず、言葉が正しくなければ刑罰が正しくならず、民は身の置き所が無くなる」と言っていた。
思うに即位以来陰陽は調和せず、異常気象が起こり、旱魃やイナゴの災害が発生し、農作物が取れず民が苦しみ、異民族が中国を乱し、邪な群盗が跋扈し、人々は恐れおののいて身の置き所が無いが、それらの咎は大義名分が正しくないことによって起こっているのだろう。安を新遷王とし、臨を統義陽王とし、二人の我が子を保全して子孫をとこしえに残すと共に、外には四方の異民族を打ち払い、内には中国全土を安んじようと願うものである」



「臨」と「安」は王莽の子、王臨と王安である。



既に出ているように、王莽は即位時点で生き残っていた二人の子の内、年少だがまだ能力的にマシだったらしい王臨を皇太子に立てた。




今回、皇太子を外した上で、またも予言に合わせるという理由で王臨を洛陽を含む王として「統義陽王」、王安を「新遷王」と封建し直したということらしい。



洛陽を領土としているらしいので王臨が後継本命であることに代わりはないのだろうが、王臨からすれば不安を覚える措置であった可能性は否定できないところであろう。




新蔡。蔡平侯自蔡徙此、後二世徙下蔡。莽曰新遷。
(『漢書』巻二十八上、地理志上、汝南郡)

ちなみに「新遷」の領土は汝南郡新蔡県あたりであったようだ。






「少子なのに皇太子という大義名分上のねじれがすべての災害の原因!だから皇太子を無くしてやるわ!これで大義名分上問題ないやろ!」という、ある意味ではなかなか面白い論理展開かもしれない。