『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その17

その16の続き。


二年正月、以州牧位三公、刺舉怠解、更置牧監副、秩元士、冠法冠、行事如漢刺史。
是月、莽妻死、諡曰孝睦皇后、葬渭陵長壽園西、令永侍文母、名陵曰億年。
初、莽妻以莽數殺其子、涕泣失明、莽令太子臨居中養焉。莽妻旁侍者原碧、莽幸之。後臨亦通焉、恐事泄、謀共殺莽。
臨妻愔、國師公女、能為星、語臨宮中且有白衣會。臨喜、以為所謀且成。後貶為統義陽王、出在外第、愈憂恐。
會莽妻病困、臨予書曰「上於子孫至嚴、前長孫・中孫年倶三十而死。今臣臨復適三十、誠恐一旦不保中室、則不知死命所在!」莽候妻疾、見其書、大怒、疑臨有惡意、不令得會喪。既葬、收原碧等考問、具服姦、謀殺状。莽欲祕之、使殺案事使者司命從事、埋獄中、家不知所在。賜臨藥、臨不肯飲、自刺死。
使侍中票騎將軍同説侯林賜魂衣璽韍、策書曰「符命文立臨為統義陽王、此言新室即位三萬六千歳後、為臨之後者乃當龍陽而起。前過聽議者、以臨為太子、有烈風之變、輒順符命、立為統義陽王。在此之前、自此之後、不作信順、弗蒙厥佑、夭年隕命、嗚呼哀哉!迹行賜諡,諡曰繆王。」
又詔國師公「臨本不知星、事從愔起。」愔亦自殺。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

  • 地皇二年(紀元21年)

地皇二年正月、州牧を三公の位とし、怠けている者を監察弾劾するようにさせ、更に牧監副を置いた。秩禄は元士とし、法冠を被り、漢の刺史のような仕事をするようにした。



この年、王莽の妻が死去した。孝睦皇后という諡号を贈り、渭陵の長寿園の西に葬り、文母太后(元后)にとこしえに仕えるようにし、陵を「億年」と名付けた。




当初、王莽の妻は王莽が何度も我が子を死に追いやるので、その都度泣いてついには失明した。王莽は皇太子の王臨に妻を看護させるため側に仕えさせた。王莽の妻の世話役の一人である原碧という女性を王莽は寵愛したが、後に王臨も彼女と密通するようになり、王臨はその事が発覚するのを恐れて王莽殺害を一緒に計画した。



王臨の妻の愔は国師公(劉歆)の娘であり、天文に詳しかった。彼女は王臨に対し、宮中で喪服を着る機会があるだろうと言った。王臨は自分の殺害計画が成就するのだと喜んだが、後に統義陽王になって宮中から出ることとなり、いよいよ恐れを抱くようになった。



ちょうどその頃、王莽の妻は病気で苦しんでいた。王臨は手紙を送ってこう言った。「陛下は子孫に対してとても厳しく、長孫・中孫はともに三十歳で死んでしまいました。今、臨もちょうど三十歳なので、私が我が家を保つことができなければ、私の命もどうなるかわかりません」



王莽は妻の病気を見舞いに行ってその手紙を発見したのでとても怒り、王臨に異心があるのではと思い、妻の葬儀に参列させなかった。葬儀後、原碧を捕えて尋問したところ、罪を認めて王莽謀殺の企みを証言した。
王莽はこの事を秘密にしようと思い、取り調べに携わった司命従事を殺して獄中に埋めてしまったので、家族も行方がわからなかった。



王莽は王臨に毒薬を賜ったが、王臨は服毒しようとせず、自らを刺して死んだ。
侍中・驃騎将軍・同説侯林に印綬や経帷子を賜い、策書を下した。「予言の文によって王臨を統義陽王としたが、これは新王朝が即位してから三万六千年の後に、王臨の子孫が勃興するということであった。以前、誤った意見を取り入れて王臨を皇太子としたが、大風の異変があったため、予言に従って統義陽王としたのである。これ以前もこれ以後も、王臨は信じ従うことがなく、予言の助けを得ることもなく、若くして亡くなってしまった。なんと悲しいことか。行跡によって「繆王」という諡号を贈る」



また、国師公劉歆にも「王臨は天文を知らない。この事の発端は天文を知る娘の愔にある」と詔を下した。愔も自殺した。




王莽、息子を自殺に追い込む(3度目)。



しかも、ここに記されている通りならこの皇太子様は王莽の妾に手を付けるというモラル的にアウトなドラ息子だったことになる。
最高に贔屓目に見ても王莽は子育てには失敗している。国政運営と同じ位。





なお、王莽の妻が言う「長孫・中孫」とは王莽の子で先に自殺した王獲・王宇のことを言っているのだと思うが、どちらも三十歳で自殺した、という風に読める。



あれ?先に自殺した王獲は中子と思っていたが・・・。王獲が享年三十数年後に死んだ王宇も享年三十だとすると、王獲が最年長だったことになるのか?





王莽、うっかり一番出来の悪い息子以外全員自殺させてしまう。