不遇な人生

(永始二年)十二月、詔曰「前將作大匠(解)萬年知昌陵卑下不可為萬歲居、奏請營作、建置郭邑、妄為巧詐、積土增高、多賦斂繇役、興卒暴之作。卒徒蒙辜、死者連屬、百姓罷極、天下匱竭。常侍(王)閎前為大司農中丞、數奏昌陵不可成。侍中衞尉(淳于)長數白宜早止、徙家反故處。朕以長言下閎章、公卿議者皆合長計。長首建至策、閎典主省大費、民以康寧。閎前賜爵關内侯、黄金百斤。其賜長爵關内侯、食邑千戸、閎五百戸。萬年佞邪不忠、毒流衆庶、海内怨望、至今不息。雖蒙赦令、不宜居京師。其徙萬年敦煌郡。」
【注】
師古曰「閎、王閎也。」
(『漢書』巻十、成帝紀、永始二年十二月)

前漢の成帝の時、成帝十字陵を作ろうとしたが工事を断念し、その責任者解万年を処分するという事件があった。


この時、十字陵工事中止を進言したのは成帝の外戚王氏の親族(成帝や王莽の従兄弟に当たる)淳于長と、「王閎」という者だったという。


後上置酒麒麟殿、(董)賢父子親屬宴飲、王閎兄弟侍中中常侍皆在側。上有酒所、從容視賢笑、曰「吾欲法堯禪舜、何如?」閎進曰「天下乃高皇帝天下、非陛下之有也。陛下承宗廟、當傳子孫於亡窮。統業至重、天子亡戲言!」上默然不説、左右皆恐。於是遣閎出、後不得復侍宴。
(『漢書』巻九十三、佞幸伝、董賢)


少し後の哀帝の時代、哀帝が宴会の席で堯から舜への禅譲を真似たいと言い出した時に哀帝に発言の非を指摘したのも「王閎」であった。



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またその後、哀帝が死去した時に皇太后王氏の命令により董賢から皇帝の璽綬を強奪したのも「王閎」だった。





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そして王莽の後に群雄が並び立った時、東郡にあって郡を保ったのも「王閎」であった。




最初の十字陵の件以外は同一人物とはっきりしており、外戚王氏の一党で王莽の従兄弟に当たる人物である。




最初の件についても、同じ王氏関係者である淳于長と共に出てきているあたり、これもやはり同一人物ではないかとも思えなくもない。というか顔シコ先生はそう思って「常侍閎」を「王閎」と断じたのだろう。


この皇帝陵の件から王莽後まで40年やそこらは経っているが、年齢的にもまったくありえないほどでもないだろう。




すべて同一人物だとすれば、この「王閎」は「皇帝陵工事中止を建言」「哀帝禅譲示唆にくぎを刺した」「皇帝の璽綬を董賢から強奪」「戦乱の世に自分の郡を守る」と、それぞれの時代でなかなかの功績を立てていたことになる。




だが、それらの記録を眺める限り、彼は一度も列侯にまではなっていないし、三公などの大官にも就いていないのである。その後淳于長は列侯になり、王莽は大司馬になり皇帝になったというのに、である。



それどころか、王莽に殺される可能性を感じて自決用の毒薬を携帯していたという(『後漢書』張歩伝)から、能力や功績に対して全く不遇の人生と言ってもいいだろう。




本当に損な役回りばかりの人物というのもいるものである。