『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その34

その33の続き。


漢兵乗勝遂圍宛城。初、世祖族兄聖公先在平林兵中。三月辛巳朔、平林・新巿・下江兵將王常・朱鮪等共立聖公為帝、改年為更始元年、拜置百官。
莽聞之愈恐、欲外視自安、乃染其須髮、進所徴天下淑女杜陵史氏女為皇后、聘黄金三萬斤、車馬奴婢雜帛珍寶以巨萬計。莽親迎於前殿両階間、成同牢之禮于上西堂。備和嬪・美御・和人三、位視公。嬪人九、視卿。美人二十七、視大夫。御人八十一、視元士。凡百二十人、皆佩印韍、執弓韣。
封皇后父褜為和平侯、拜為寧始將軍、褜子二人皆侍中。是日、大風發屋折木。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)


漢は勝ちに乗じてついに宛の城を包囲した。当初、世祖の一族で同世代の年長者である劉聖公(劉玄)は先に平林の軍の中にいた。三月辛巳、平林・新巿・下江の兵の将である王常・朱鮪らは共に劉聖公を皇帝に立て、更始元年と改元して百官を置いた。



王莽はこれを聞いて更に恐れを抱き、人々に安心感を示そうとして髪やヒゲを染め、召集した天下の淑女たちから杜陵の史氏を皇后に立て、結納金として黄金三万斤、そのほか馬車・馬・奴婢・反物・財宝など数えきれないほどの結納品であった。王莽は自ら前殿の二つの階段の間で出迎え、上西堂において食事を分け合う婚姻の礼を行った。また和嬪・美御・和人の三人を置き、公の位に相当させた。嬪人を九人置き、卿の位に相当させた。美人を二十七人置き、大夫の位に相当させた。御人を八十一人置き、元士の位に相当させた。全部で百二十人とし、みな印綬を帯び、弓と弓袋を持たせた。
皇后の父の史褜を和平侯に封建し、寧始将軍の官を与えた。史褜の子二人を侍中とした。



この日、大風が屋根を剥がし木を折った。



劉聖公、いわゆる更始帝登場。


四年正月、破王莽前隊大夫甄阜・屬正梁丘賜、斬之、號聖公為更始將軍。
衆雖多而無所統一、諸將遂共議立更始為天子。二月辛巳、設壇場於淯水上沙中、陳兵大會。更始即帝位、南面立、朝羣臣。素懦弱、羞愧流汗、舉手不能言。於是大赦天下、建元曰更始元年。悉拜置諸將、以族父良為國三老、王匡為定國上公、王鳳成國上公、朱鮪大司馬、伯升大司徒、陳牧大司空、餘皆九卿・將軍。
(『後漢書』列伝第一、劉玄伝)


劉聖公は自称「更始将軍」から皇帝を称し、元号を「更始元年」とした。



この「更始」推しは、やはりこの時代の何らかの予言(符命)に「更始」に関するものがあったということなのだろう。
王莽自身も「寧始将軍」を「更始将軍」に改称して予言に合わせる、と言っていた





王莽、再婚する。



ちなみに杜陵の史氏というと、前漢の宣帝の祖母の一族である史氏がいる(元は魯の出身だが杜陵に移住した)。


意図的なものか偶然かわからないが、たぶんこの史氏なのではないかと思う。