『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その26

その25の続き。


三年正月、九廟蓋構成、納神主。莽謁見、大駕乗六馬、以五采毛為龍文衣、著角、長三尺。華蓋車、元戎十乗在前。因賜治廟者司徒・大司空錢各千萬、侍中・中常侍以下皆封。封都匠仇延為邯淡里附城。
二月、霸橋災、數千人以水沃救不滅。
莽惡之、下書曰「夫三皇象春、五帝象夏、三王象秋、五伯象冬。皇王、徳運也。伯者、繼空續乏以成暦數、故其道駮。惟常安御道多以所近為名。乃二月癸巳之夜、甲午之辰、火燒霸橋、從東方西行、至甲午夕、橋盡火滅。大司空行視考問、或云寒民舍居橋下、疑以火自燎、為此災也。其明旦即乙未、立春之日也。予以神明聖祖黄虞遺統受命、至于地皇四年為十五年。正以三年終冬絶滅霸駮之橋、欲以興成新室統壹長存之道也。又戒此橋空東方之道。今東方歳荒民飢、道路不通、東岳太師亟科條、開東方諸倉、賑貸窮乏、以施仁道。其更名霸館為長存館、霸橋為長存橋。」
是月、赤眉殺太師犧仲景尚。
關東人相食。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

  • 地皇三年(紀元22年)

地皇三年正月、九廟がおおむね完成し、神主を収めた。王莽は六頭立ての大きな馬車に乗り、五色の毛で竜の模様を作った衣を付け、三尺の角を装着した。花笠の馬車、戦車十台がその前に並んだ。
そこで廟の完成に携わった大司徒・大司空に各々一千万銭を下賜し、侍中・中常侍以下をみな封建した。都匠の仇延を邯淡里附城に封建した。



二月、覇橋で火災があり、数千人が水をかけて消火しようとしたが消えなかった。



王莽はこれを不快に思い、命令を下した。
「三皇は春に当たり、五帝は夏に当たり、三王は秋に当たり、五覇は冬に当たる。三皇・五帝・三王は徳の運行であるが、覇というのは空位を継いで天命を受けており、それゆえに純粋ではない。思うに、常安(長安)の道は近くにあるものによって名前を付けている。二月癸巳の夜から翌甲午の朝にかけて火が覇橋を焼き、火は東から西へと進み、甲午の夕方になって橋が焼けつくされてやっと火が消えた。大司空が視察したところでは、橋の下に貧民が住み着いており、彼らが火を使ったためにこの災害が起きたと疑われるということである。その翌日は乙未であり、この日は立春に当たる。予は黄帝・虞舜の血統を受け継いで天命を受け、地皇四年で十五年になる。その前年の地皇三年に冬に当たり純粋ではない「覇」の橋が焼き尽くされるというのは、純粋なる新王朝をとこしえに続かせようということなのであろう。またこれは東方の道を空にすることについての戒めである。今、東方は作物が実らず民が飢え、道は通じていない。東岳太師はすみやかに必要な場所を選んで備蓄倉庫を開いて飢えた貧しい民を救い、仁の道を施すように。また覇館を長存館、覇橋を長存橋と改名せよ。」




この月、赤眉は太師犧仲の景尚を殺した。



函谷関の東側では人が人の肉を食べるほどの飢餓に見舞われた。


王莽は覇橋の火災という普通に考えたら不吉としか思えない事項を吉兆と言い張る。



というか、「新王朝は天命を受けてとこしえに続く」ということを前提に解釈しようとすると、こういった解釈になるのだろう。


このあたりは一貫しているといえば一貫しているので、流石と言ってもいいのかもしれない。