『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その14

その13の続き。


崔發・張邯説莽曰「徳盛者文縟、宜崇其制度、宣視海内、且令萬世之後無以復加也。」
莽乃博徴天下工匠諸圖畫、以望法度算、及吏民以義入錢穀助作者、駱驛道路。壊徹城西苑中建章・承光・包陽・大臺・儲元宮及平樂・當路・陽祿館、凡十餘所、取其材瓦、以起九廟。
是月、大雨六十餘日。令民入米六百斛為郎、其郎吏筯秩賜爵至附城。
九廟、一曰黄帝太初祖廟、二曰帝虞始祖昭廟、三曰陳胡王統祖穆廟、四曰齊敬王世祖昭廟、五曰濟北愍王王祖穆廟、凡五廟不墮云。六曰濟南伯王尊禰昭廟、七曰元城孺王尊禰穆廟、八曰陽平頃王戚禰昭廟、九曰新都顯王戚禰穆廟。殿皆重屋。太初祖廟東西南北各四十丈、高十七丈、餘廟半之。為銅薄櫨、飾以金銀琱文、窮極百工之巧。帯高筯下、功費數百鉅萬、卒徒死者萬數。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

崔発・張邯が王莽に説いた。「徳が盛んな者は多く飾られておりますので、宗廟の制度を崇高にし、それを天下に示して後世にこれ以上追加することができないようにするべきです」



王莽はそこで天下の職人たちを広く呼び寄せて設計を考えさせ、また官吏や民で義捐金として銭や穀物を出す者が道に絶えないほどであった。



長安城の西の苑内の建章宮・承光宮・包陽宮・大台宮・儲元宮、平楽館・当路館・陽禄館などおよそ十あまりの建築物を解体撤去し、その木材や瓦を九廟に転用した。



この月、大雨が六十日続いた。民で脱穀した穀物六百斛を献上した者を郎とし、献上した者が郎吏の場合は官秩を増し、最大で附城までの爵位を下賜した。



九廟は以下の通りであった。一つ目は黄帝の太初祖廟、二つ目は帝虞の始祖昭廟、三つ目は三曰陳胡王の統祖穆廟、四つ目は斉敬王の世祖昭廟、五つ目は済北愍王の王祖穆廟であり、この五つは撤廃することのない廟とした。六つ目は済南伯王の尊禰昭廟、七つ目は元城孺王の尊禰穆廟、八つ目は陽平頃王の戚禰昭廟、九つ目は新都顕王の戚禰穆廟といった。建物は二重の屋根とした。太初祖廟は東西南北がおのおの四十丈、高さ十七丈であり、他の廟はその半分とした。柱の上に置く角材を銅で作り、金銀を用いて彫刻の飾りを施し、技巧の粋を凝らした。高地に建立して低いところへ増築し、総工費は数百億、兵卒や働かされる刑徒には万単位で死者が出た。




漢の宗廟は七廟であったので、王莽は二つ追加したことになる。



黄帝、②虞、③陳胡公、④陳敬仲(田完)、⑤済北王田安、⑥王遂、⑦王賀、⑧王禁(元后の父)、⑨王曼(王莽の父)ということのようだ。





ところで、「吏民以義入錢穀助作者、駱驛道路」というのは「令民入米六百斛為郎、其郎吏筯秩賜爵至附城」によって引き起こされたんじゃないのかなあ。つまり、純粋に忠義心などから拠出したというよりは、レア官位・爵位が必ず当たるという謳い文句に引かれて重課金したんじゃないか、ということだ。





それにしても、漢の武帝が作った建章宮、同じく武帝の時に角力を開催したという平楽館などがこの時に解体されたということらしい。


漢王朝の栄耀栄華を思い起こさせるようなモノをできるだけ減らそう、新王朝に刷新しよう、といった意図もあったのかもしれない。