『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その23

その22の続き。


時子尋為侍中京兆大尹茂徳侯、即作符命、言新室當分陝、立二伯、以豐為右伯、太傅平晏為左伯、如周召故事。
莽即從之、拜豐為右伯。當述職西出、未行、尋復作符命、言故漢氏平帝后黄皇室主為尋之妻。莽以詐立、心疑大臣怨謗、欲震威以懼下、因是發怒曰「黄皇室主天下母、此何謂也!」收捕尋。尋亡、豐自殺。
尋隨方士入華山、歳餘捕得、辭連國師公歆子侍中東通靈將・五司大夫・隆威侯棻、棻弟右曹・長水校尉・伐虜侯泳、大司空邑弟左關將軍・掌威侯奇、及歆門人侍中・騎都尉丁隆等、牽引公卿黨親列侯以下、死者數百人。
尋手理有「天子」字、莽解其臂入視之、曰「此一大子也、或曰一六子也。六者、戮也。明尋父子當戮死也。」乃流棻于幽州、放尋于三危、殛隆于羽山、皆驛車載其屍傳致云。
莽為人侈口蹷顄、露眼赤精、大聲而嘶。長七尺五寸、好厚履高冠、以氂裝衣、反膺高視、瞰臨左右。是時有用方技待詔黄門者、或問以莽形貌、待詔曰「莽所謂鴟目虎吻豺狼之聲者也、故能食人、亦當為人所食。」問者告之、莽誅滅待詔、而封告者。
後常翳雲母屏面、非親近莫得見也。
是歳、以初睦侯姚恂為寧始將軍。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)

この時、甄豊の子の甄尋は侍中・京兆大尹・茂徳侯であったが、新王朝は陝山で分割して左伯と右伯を立て、周公と召公の故事のように甄豊を右伯、太傅平晏を左伯とするべきという天からの命令を作った。
王莽はこれに従い、甄豊を右伯に命じ、西へ出発せんとする時、甄尋はまた元の漢の平帝の皇后であった黄皇室主を甄尋の妻とすべしという天からの命令を作った。王莽は偽りで皇帝になったことから、大臣たちの恨みを疑い、恐怖を与えて下々を脅かそうと考え、そこで怒って「黄皇室主は天下の母であるというのに、これはなんということを言うのだ!」と言い、甄尋を捕えた。甄尋は逃げ、甄豊は自殺した。
甄尋は方士と共に華山に逃げ入ったが一年余り後に逮捕され、自白により国師公劉歆の子の侍中・東通霊将・五司大夫・隆威侯劉棻、その弟の右曹・長水校尉・伐虜侯劉泳、大司空王邑の弟の左関将軍・掌威侯王奇、劉歆の門人の侍中・騎都尉丁隆ら大臣、関係者、親族、列侯以下が芋蔓式に関与が発覚して数百人が死亡した。
甄尋の手相には「天子」と読める線があったが、王莽は手を切り取ってそれを見て「これは「一大子」か「「一六子」であろう。「六」とは「戮」のことである。甄尋親子が殺戮されることを指すことは明らかである」と言った。そこで劉棻を幽州へ配流し、甄尋を三危山に放逐し、丁隆を羽山で誅殺し、皆早馬でその屍を送った。



王莽は大きな口で細い顎、ギョロ目で赤い瞳、大きな声でしわがれ声であった。身長七尺五寸、厚い履と高い冠を好み、毛羽立った衣をまとい、胸を反らして上から目線、遠く左右を見ていた。
この時、特殊技能で召し出されて黄門でお召しを待っていた者がいて、ある者が彼に王莽の外見について尋ねた。召し出しを待っていた者は「王莽はいわゆる鳶の目、虎の口、山犬や虎のような声の持ち主なので、人を食べるが、人に食べられるのです」と答えた。
質問した者はこのことを密告し、王莽は召し出しを待っていた者を誅殺し、密告者を封建した。
その後、王莽は雲母の屏風で顔を隠すようになり、親しい者、近侍の者以外は直接対面することができなくなった。



この年、初睦侯姚恂を寧始将軍とした。



王莽の腹心たちが王莽に潰されてゆく。



以前、王莽の腹心について記した部分があった


これによると「王舜・王邑為腹心、甄豐・甄邯主撃斷、平晏領機事、劉歆典文章、孫建為爪牙。豐子尋・歆子棻・涿郡崔發・南陽陳崇皆以材能幸於莽」ということだが、ここで名前が出た者のうち王邑の弟、甄豊、その子甄尋、劉歆の門人、その子劉棻と、三分の一以上が今回の事件に関与していたことになる。

これは「三国志」の曹操配下で例えれば、荀紣と程碰と曹洪夏侯淵は異心を抱いていました、劉備で言えば関羽趙雲は敵になりました、みたいな話であろう。割と無茶苦茶である。


あと、既に何度か出てきていた王奇はどうやら王邑の弟のことだったようだ。





そして、王莽の心もまた潰されてゆく。


「すごーい!王莽は人を食うけど人に食われるフレンズなんだね!」ということらしいが、まあそんなこと言われたら顔を見せたくなくなるというものかもしれない。




あと、姚恂は最初の方で出てきた、黄帝の祭祀を受け継いだという人物である。古くからの功臣だったのか、それとも黄帝との関わりを認定されたことで特別扱いされ始めたのかはよくわからない。