『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その24

その23の続き。


三年、莽曰「百官改更、職事分移、律令儀法、未及悉定、且因漢律令儀法以從事。令公卿大夫諸侯二千石舉吏民有徳行通政事能言語明文學者各一人、詣王路四門。」
尚書大夫趙並使勞北邊、還言五原北假膏壤殖穀、異時常置田官。乃以並為田禾將軍、發戍卒屯田北假、以助軍糧。
是時諸將在邊、須大衆集、吏士放縱、而内郡愁於徴發、民棄城郭流亡為盜賊、并州・平州尤甚。
莽令七公六卿號皆兼稱將軍、遣著武將軍逯並等填名都、中郎將・繡衣執法各五十五人、分填縁邊大郡、督大姦猾擅弄兵者、皆便為姦於外、撓亂州郡、貨賂為市、侵漁百姓。
莽下書曰「虜知罪當夷滅、故遣猛將分十二部、將同時出、一舉而決絶之矣。内置司命軍正、外設軍監十有二人、誠欲以司不奉命、令軍人咸正也。今則不然、各為權勢、恐猲良民、妄封人頸、得錢者去。毒蠚並作、農民離散。司監若此、可謂稱不?自今以來、敢犯此者、輒捕繫、以名聞。」然猶放縱自若。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)

  • 始建国三年(紀元11年)

始建国三年、王莽は命じた。「百官が改まり、職務が分かれたり移ったりし、律令儀礼が完全には定まっていないため、しばらくは漢の律令儀礼を用いている。三公、九卿、大夫、諸侯、二千石は官吏や民の中で徳行ある者、政治に通じている者、言語に詳しい者、文章に明るい者を各一名ずつ推挙し、宮殿の四方の門へ集めよ」



尚書大夫趙並を使者として北辺へ派遣した。戻ってきた趙並は五原郡の北仮の土地が豊かで穀物の収穫が期待でき、かつては常に田官を置いていたと報告した。そこで趙並を田禾将軍とし、辺境守備兵を徴発して北仮で屯田を行い、軍の兵糧の助けとした。



この時、諸将は辺境にいて大軍が集結するのを待っていたが、官吏や兵士は好き勝手をしていた。一方、内郡は徴発に悩み、民は都市を捨てて流民となって群盗となり、并州や平州が特に酷かった。
王莽は七公・六卿を皆将軍を兼務させ、著武将軍逯並らを大都市に駐屯させ、中郎将と繡衣執法各五十五人を辺境の大きな郡へ派遣し、汚職や武器の不正使用などを取り締まらせた。みな外へ派遣されて悪事を行い、州郡を混乱させ、賄賂を行い、民を食い物にした。
王莽は命令を下した。「反乱者知(匈奴単于)は誅滅されるべき罪があったために十二人の将を分遣し、一挙に決着をつけようとしている。内には司命・軍正を置き、外には軍監十二人を置いたのは、命令を守らない者を監察し、軍人全てを正そうとしているからである。しかし今はそうではなく、各々が権勢を振るい、良民を恐喝してその首に封印をし、金をもらわないと取り去ろうとしない。毒虫どもが一斉に現われ、農民たちは離散している。司命や軍監がそのようであっては、どうして仕事をしていると言えようか。今より以降、これらの罪を犯した者は、すぐに捕縛して名を上奏せよ」
しかしながら、官吏や兵士はこれまで同様に好き勝手をし続けた。



王莽の軍隊、結集までの間に評判を落とすの巻。誇張などもあるかもしれないが、もはや完全に亡国の軍の様相である。



公や卿も将軍を兼任していたということのようなので、王莽政権は案外軍事政権的な部分もあったのだろうか。