忠孝侯の正体

(王)莽欲依霍光故事以女配帝、太后意不欲也。莽設變詐、令女必入、因以自重、事在莽傳。太后不得已而許之、遣長樂少府夏侯藩・宗正劉宏・少府宗伯鳳・尚書令平晏納采、太師(孔)光・大司徒馬宮・大司空甄豐・左將軍孫建・執金吾尹賞行太常事・太中大夫劉歆及太卜・太史令以下四十九人賜皮弁素績、以禮雜卜筮、太牢祠宗廟、待吉月日。
(『漢書』巻九十七下、外戚伝下、孝平王皇后)


昨日の「忠孝侯劉宏」だが、彼は王莽の娘を皇后にしようとした元始3年頃に「宗正」であった。



宗室劉氏を管理する官であり、ある意味では劉氏の代表するような立場とも言えるだろう。


陳留太守渤海劉不惡子麗為宗正更名容
(『漢書』巻十九下、百官公卿表下、建平四年)


この時期の宗正は『漢書』百官公卿表下では「劉容」であったとされている。



この「劉容」と「劉宏」は、似た字形から伝写の誤りを起こした同一人物なのだろう。




この「劉宏=劉容」は、解任された時期もあるようだが王莽時代に長く宗正・宗伯(宗正から改名)を務め、翟義の乱の時には討伐軍の将軍となり、どうやら王莽への禅譲の時も宗伯だったらしい(『漢書』王莽伝中)。



つまりは、筋金入りの王莽シンパであり、禅譲(簒奪)の協力者だったと言えるだろう。



「劉不悪」から「劉宏=劉容」への改名も、王莽が「二字名」を禁じた際の話だと思われる。これも劉氏の代表格が積極的に従うというポーズによるものだったのかもしれない。




「忠孝侯」という列侯も、『漢書』功臣表・外戚恩沢侯表に見えないので、おそらくは平帝死後に全権を握る王莽によって得た爵位の可能性が高い。



劉氏でありながら積極的に王莽に協力し、最終的には彼の禅譲計画にも参画することになる人物が、王莽への忠誠と協力の見返りに賜った爵位の印。


それが昨日の記事に出てきた「忠孝侯印」の正体ということだ。