二文字名禁止令

立故東平王雲太子開明為王、故桃郷頃侯子成都為中山王。封宣帝耳孫信等三十六人皆為列侯。太僕王惲等二十五人前議定陶傅太后尊號、守經法、不阿指從邪、右將軍孫建爪牙大臣、大鴻臚(左)咸前正議不阿、後奉節使迎中山王、及宗正劉不惡・執金吾任岑・中郎將孔永・尚書令烑恂・沛郡太守石詡、皆以前與建策、東迎即位、奉事周密勤勞、賜爵關内侯、食邑各有差。
(『漢書』巻十二、平帝紀、元始元年正月)

(王)莽欲依霍光故事以女配帝、太后意不欲也。莽設變詐、令女必入、因以自重、事在莽傳。太后不得已而許之、遣長樂少府夏侯藩・宗正劉宏・少府宗伯鳳・尚書令平晏納采、太師(孔)光・大司徒馬宮・大司空甄豐・左將軍孫建・執金吾尹賞行太常事・太中大夫劉歆及太卜・太史令以下四十九人賜皮弁素績、以禮雜卜筮、太牢祠宗廟、待吉月日。
(『漢書』巻九十七下、外戚伝下、孝平王皇后)

以前の記事で「劉不悪」=「劉容」=「劉宏」であるという話をした。



元始元年には「宗正劉不悪」だった者が元始3年頃には「宗正劉宏」になっている。




この「劉不悪」から「劉宏」への改名時期(元始元年から元始3年までの間)が「時(王)莽奏令中國不得有二名」(『漢書』巻九十四下、匈奴伝下)という、王莽の二文字名禁止の時期ということだろうか。


詔曰「皇帝二名通于器物、今更名、合於古制。使太師(孔)光奉太牢告祠高廟。」
(『漢書』巻十二、平帝紀、元始二年春)

元始2年に平帝の名を二文字から一文字に改名するという詔が出されているので、この時に臣下に対しても二文字名を禁じるようにしたのかもしれない。





まあどこかに明確に二文字名の禁令についての記事等があるかもしれないが・・・。