晏嬰立崔杼門外曰「君為社稷死則死之、為社稷亡則亡之。若為己死己亡、非其私暱、誰敢任之!」門開而入、枕公尸而哭、三踊而出。人謂崔杼「必殺之。」崔杼曰「民之望也、舍之得民。」
(『史記』巻三十二、斉太公世家、荘公六年)
春秋時代の斉、晏嬰の時代の話。
権臣崔杼が擁立した君主荘公は、その崔杼との間の女性をめぐるトラブル(崔杼の妻をイタダキしちゃったら怒った崔杼に反撃された)で崔杼に殺されることとなった。
晏嬰はそれに際し「君主が社稷のために死ぬこととなったなら共に死ななければいけない。社稷のために亡命することとなったなら共に亡命しなければならない。だがもし君主が己のために死んだり亡命したのであれば、私臣以外は運命を共にすることはないのである」と言い、殺された君主荘公の遺体を自分の膝枕で寝かせて喪礼の哭(泣き叫ぶ)を行って遺体のある崔杼の屋敷を出たという。
つまり、荘公が社稷のために戦ったりして殺されたというなら、共に戦う即ち仇である崔杼を代わりに滅ぼすべきであろうが、今回はそうではない私闘での死なので君主にお付き合いして命を懸けるつもりはありません、という宣言をしたことになるのだろう。
ドライに思えるかもしれないが、社稷を君主よりも上に置くのはそう珍しい考え方でもない。
ここまでが前半。ここからが本題である。
W/L
高貴郷公の孤独 - 誰が曹髦の味方だったのか
http://wl.yesx.org/column/weijin-lonely-caomao.html
このリンク先に興味深い指摘がある。
陳泰や司馬孚が高貴郷公の死に際して遺体を膝枕して泣き叫んだ*1というのは、この晏嬰の言動をふまえたものであろう、ということだ。
なるほど、シチュエーション的に似たものがある。
だがそうなると、陳泰らは斉の例における晏嬰であるから、彼らは「高貴郷公の死に対しては礼を尽くすが、高貴郷公の死は社稷のための死ではないので、殺した者(司馬昭)に立ち向かうようなことはしない」と思っていると宣言したようにも見えるわけだ。
陳泰らの行動は、高貴郷公の側に立っているように見えて、実際には皇帝の挙兵を肯定せず、司馬昭に敵対する気も無いことを明らかにするものであったと言うことができそうである。