『三国志』高貴郷公髦紀を読んでみよう:その9

その8(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/03/15/000100)の続き。





五年春正月朔、日有蝕之。
夏四月、詔有司率遵前命、復進大將軍司馬文王位為相國、封晉公、加九錫。
五月己丑、高貴鄉公卒、年二十。
太后令曰「吾以不徳、遭家不造、昔援立東海王子髦、以為明帝嗣、見其好書疏文章、冀可成濟、而情性暴戻、日月滋甚。吾數呵責、遂更忿恚、造作醜逆不道之言以誣謗吾、遂隔絶両宮。其所言道、不可忍聽、非天地所覆載。吾即密有令語大將軍、不可以奉宗廟、恐顛覆社稷、死無面目以見先帝。大將軍以其尚幼、謂當改心為善、殷勤執據。而此兒忿戻、所行益甚、舉弩遙射吾宮、祝當令中吾項、箭親墮吾前。吾語大將軍、不可不廢之、前後數十。此兒具聞、自知罪重、便圖為弒逆、賂遺吾左右人、令因吾服藥、密因酖毒、重相設計。事已覺露、直欲因際會舉兵入西宮殺吾、出取大將軍、呼侍中王沈・散騎常侍王業・尚書王經、出懷中黄素詔示之、言今日便當施行。吾之危殆、過于累卵。吾老寡、豈復多惜餘命邪?但傷先帝遺意不遂、社稷顛覆為痛耳。頼宗廟之靈、沈・業即馳語大將軍、得先嚴警、而此兒便將左右出雲龍門、雷戰鼓、躬自拔刃、與左右雜衛共入兵陳間、為前鋒所害。此兒既行悖逆不道、而又自陷大禍、重令吾悼心不可言。昔漢昌邑王以罪廢為庶人、此兒亦宜以民禮葬之、當令内外咸知此兒所行。又尚書王經、凶逆無状、其收經及家屬皆詣廷尉。」
(『三国志』巻四、高貴郷公髦紀)

甘露5年。途中で切る。



ワニより早く死ぬ皇帝。



景元元年夏四月、天子復命帝爵秩如前、又讓不受。
天子既以帝三世宰輔、政非己出、情不能安、又慮廢辱、將臨軒召百僚而行放黜。
五月戊子夜、使宂從僕射李昭等發甲於陵雲臺、召侍中王沈・散騎常侍王業・尚書王經、出懷中黄素詔示之、戒嚴俟旦。沈・業馳告于帝、帝召護軍賈充等為之備。天子知事泄、帥左右攻相府、稱有所討、敢有動者族誅。相府兵將止不敢戰、賈充叱諸將曰「公畜養汝輩、正為今日耳!」太子舍人成濟抽戈犯蹕、刺之、刃出於背、天子崩于車中。
帝召百僚謀其故、僕射陳泰不至。帝遣其舅荀顗輿致之、延於曲室、謂曰「玄伯、天下其如我何?」泰曰「惟腰斬賈充、微以謝天下。」帝曰「卿更思其次。」泰曰「但見其上、不見其次。」於是歸罪成濟而斬之。太后令曰「昔漢昌邑王以罪廢為庶人、此兒亦宜以庶人禮葬之、使外内咸知其所行也。」
尚書王經、貳於我也。
(『晋書』巻二、文帝紀

この辺は知っている人がほとんどだろうが、実際には高貴郷公は司馬昭排除のためとしか思われない行動を取ったが露見した事で強行策に出た、というところだったらしい。



なおその前の相国・晋公・九錫は辞退していたようだ。




太后によると「自分(皇太后)に当たるようにと呪詛してクロスボウを撃ってきた」「自分を毒殺しようとした」と高貴郷公が皇太后を亡き者にしようとしたのだと言っているが、高貴郷公が司馬昭より先に皇太后を殺す理由は無いと思うので、そんな事は無かったのだろう。「臣下を殺そうとした」では皇帝を死なせても仕方ない理由にならないが、「皇太后を殺そうとした」なら親不孝に大逆のダブルになるから理由になる。





高貴郷公殺害の実行犯は成済という人物。


太后の言葉の中に「見其好書疏文章、冀可成濟」(「文章を好んでいるのを見て大人物に成長するのを期待した」と言った意味か)というのがあるが、ここに殺害した人物の姓名が含まれているのは単なる偶然か、それとも何らかのメッセージなのか。




高貴郷公から企みを知らされた王沈・王業・王経の内、王経以外はすぐ司馬昭の元へ走った。まあ、司馬昭を捕縛なり殺害なりしたとして、他の司馬氏や司馬氏恩顧の鎮将らが蜂起して別の皇帝を立てて大規模な内戦が始まるなんて可能性も十分あっただろうから、魏全体の事を考えたら簡単にこの企みには乗れないだろう。



王経はあの姜維に大敗した人物。司馬氏指揮下で前線の兵を任されたとも言える。王沈は『魏書』を著した人物で、王昶の親族である。


考えてみると王昶は割と司馬氏寄りのスタンスだったはずなので、結局この時に皇帝の側にいた人物たちは大体が司馬氏に近い者から選ばれていたんじゃないか、という感じもする。