『晋書』景帝紀を読んでみよう:その6

その5(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/07/28/000100)の続き。





是日、與羣臣議所立。
帝曰「方今宇宙未清、二虜爭衡、四海之主、惟在賢哲。彭城王據、太祖之子、以賢、則仁聖明允。以年、則皇室之長。天位至重、不得其才、不足以寧濟六合。」乃與羣公奏太后
太后以彭城王先帝諸父、於昭穆之序為不次、則烈祖之世永無承嗣。東海定王、明帝之弟、欲立其子高貴郷公髦。帝固爭不獲、乃從太后令、遣使迎高貴郷公於元城而立之、改元曰正元。
天子受璽惰、舉趾高、帝聞而憂之。及將大會、帝訓於天子曰「夫聖王重始、正本敬初、古人所慎也。明當大會、萬衆瞻穆穆之容、公卿聽玉振之音。詩云『示人不佻、是則是效。』易曰『出其言善、則千里之外應之。』雖禮儀周備、猶宜加之以祗恪、以副四海顒顒式仰。」
(『晋書』巻二、景帝紀

高貴郷公、皇帝になる。



当初、司馬師らは魏武の子である彭城王曹拠を次の皇帝に考えていたのだが、皇太后郭氏が反対した。



魏武の孫である烈祖様の皇后であった郭氏から見て、彭城王は上の世代に当たる。皇太后の地位がとても微妙なものになるという事だ。また、烈祖様の死後の祭祀を行う後継者が斉王芳だったわけだが、それが上の世代になってしまうと、祭祀の上では烈祖様は断絶するようなものだという事らしい。



司馬師らもそれが一切わかっておらずに彭城王を推したわけでもないだろう。つまり魏文・烈祖様という皇統を魏武までさかのぼってリセットしたかった、という意図があったのではなかろうか。理由はともあれ。



それに対し、皇太后は東海定王曹霖の子の高貴郷公曹髦を強く推す。


東海定王霖、黄初三年立為河東王。六年、改封館陶縣。明帝即位、以先帝遺意、愛寵霖異於諸國。而霖性麤暴、閨門之内、婢妾之間、多所殘害。太和六年、改封東海。嘉平元年薨。子啟嗣。景初・正元・景元中、累增邑、并前六千二百戸。
高貴郷公髦、霖之子也、入繼大宗。
(『三国志』巻二十、東海定王霖伝)

高貴郷公諱髦、字彦士。文帝孫、東海定王霖子也。
正始五年、封郯縣高貴郷公。少好學、夙成。齊王廢、公卿議迎立公。
(『三国志』巻四、高貴郷公髦紀)


高貴郷公の父は魏文の子で、烈祖様の弟。つまり、高貴郷公は斉王芳と同世代であり、烈祖様の後継ぎという名目は保たれるのである。



高貴郷公は学問を好んでいたというので、優秀だという評判があったのだろう。


魏氏春秋曰、公神明爽儁、徳音宣朗。罷朝、景王私曰「上何如主也?」鍾會對曰「才同陳思、武類太祖。」景王曰「若如卿言、社稷之福也。」
(『三国志』巻四、高貴郷公髦紀注引『魏氏春秋』)


曹植(陳思王)や魏武にも匹敵するというのは少々誇大広告だったかもしれないが、当時の人々が優秀だと感じる何かはあったに違いない。もっとも、実際に戦場に行ったとも思えない高貴郷公の何から「武」を判断したのかは知らないが。