陳泰と司馬昭の間に

干寶晉紀曰、高貴郷公之殺、司馬文王會朝臣謀其故。太常陳泰不至、使其舅荀邈召之。邈至、告以可否。泰曰「世之論者、以泰方於舅、今舅不如泰也。」子弟内外咸共逼之、垂涕而入。王待之曲室、謂曰「玄伯 、卿何以處我?」對曰「誅賈充以謝天下。」文王曰「為我更思其次。」泰曰「泰言惟有進於此、不知其次。」文王乃不更言。
魏氏春秋曰、帝之崩也、太傅司馬孚・尚書右僕射陳泰枕帝尸於股、號哭盡哀。時大將軍入于禁中、泰見之悲慟、大將軍亦對之泣、謂曰「 玄伯、其如我何?」泰曰「獨有斬賈充、少可以謝天下耳。」大將軍久之曰「卿更思其他。」泰曰「豈可使泰復發後言。」遂嘔血薨。
(『三国志』巻二十二、陳泰伝注)

高貴郷公薨、内外諠譁。司馬文王問侍中陳泰曰「何以靜之?」泰云「唯殺賈充、以謝天下」文王曰「可復下此不?」對曰「但見其上、未見其下」
(『世説新語』方正第五)


魏の皇帝高貴郷公は傀儡同然の地位に甘んじることを良しとせずに大将軍司馬昭に対して挙兵し、逆に返り討ちに遭って賈充の配下に殺害された。



当然そのことは司馬昭からすれば「皇帝殺し」の汚名ということになってしまうわけで、対応に悩んでいた様子が伺えるわけだが、そんな中で司馬昭は陳泰に意見を求めたとされている。




その経緯は伝ごとに多少の違いがあるような感じになっているが、共通しているのは「賈充を斬る以外に釈明の手立て無し」ということである。




その点について、例えば現在の版のWikipediaなどに見えるように、おそらく「但見其上、未見其下」から、「賈充を斬る以外の方法は、より上の司馬昭が死ぬしかない」と解釈されている場合が多いようなのだ。





だが考えてみるに、少なくとも上記の引用では陳泰は司馬昭に命をもって償うべきということまでは述べていないし、示唆しているというのも少し飛躍があるように思える。




「賈充を斬るよりも上の手段として、司馬昭自身が責任を取る手段がある」という意味であったとしても、陳泰は司馬昭が死をもって贖えと思っていたのだろうか・・・?




現実に司馬昭が自ら責任を取る(というポーズを示す)としたら、自らの罪を認め、官位を全て返上して断罪を待つ、といった形となるだろう。



では断罪することになるであろう新皇帝または皇太后は彼を処刑するだろうか?



おそらくそうはならない。臣下はかわるがわる司馬氏の功績に免じて命だけはと土下座するだろうし、皇太后だって司馬氏には世話になってもいる。



何より、司馬昭が仮に引退しても、司馬氏は他にも何人も要職に就いているのである。


少なくとも、命は助けられる公算が強いのではなかろうか(ただし失脚し、司馬氏の権力も分散するだろう)。





となれば、陳泰はきっとそれくらは判断した上で上記のようなことを述べているのだろうから、司馬昭が「俺が責任を取って地位を返上し、死罪を待とうではないか」などと言い出したとしても実際には死にはしないだろうと理解していたのではなかろうか。




というわけで、陳泰が賈充を斬ることをプッシュするのは、むしろ司馬昭に失脚してほしくないからか、そうでなければこの機に賈充にぜひ死んでほしいからか、どちらかと考えた方が良いように思う。