及高貴郷公遭害、百官莫敢奔赴、孚枕尸於股、哭之慟、曰「殺陛下者臣之罪。」奏推主者。會太后令以庶人禮葬、孚與羣公上表、乞以王禮葬、從之。
(『晋書』巻三十七、安平献王孚伝)
魏の皇帝高貴郷公が殺害された時、本来なら大臣以下百官はみな何を置いても皇帝のところへ駆けつけて号泣するといった皇帝の死に際しての礼を執り行うのが筋である、はずである。
だが、この時の百官はみな行こうとせず、結局皇帝のもとへ駆けつけたのは当時太傅の司馬孚と先日の記事で紹介した陳泰だけであったらしい。
これは、実際には司馬昭の権勢や「実力行使」を恐れて動くに動けないという事情がそうさせた面が強いとは思うが、結果としては百官は高貴郷公を皇帝として認めないということになってしまったと言えるだろう。
そういうことでないと、百官は皇帝の危難に際しても動こうともしないという、不敬中の不敬になってしまうではないか。
陳泰・司馬孚の行ったようなことは、昨日の記事で述べたように「皇帝の行為を社稷のためのものとは認めず、司馬昭とは直接敵対しない」ことも意味していたかもしれないが、皇帝の危難を引き起こしたこととそれに対し動くことさえしない百官に対しては無言の抗議でもあるのかもしれない。
また、百官のこういった態度は、結局は高貴郷公を公式に皇帝としては認めないとするしかないという情勢を生んだのかもしれない。
そうしておかないと、百官は皇帝の死に対し駆けつけもしない連中だったことになってしまう。
だが皇帝ではなかった、皇帝にふさわしくなかったということなら、駆けつけないのも無理はないということになる。
司馬昭以上に、駆けつけなかった百官こそ高貴郷公の皇帝からの登録抹消を必要としていたのではなかろうか。