『三国志』高貴郷公髦紀を読んでみよう:その10

その9(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/03/16/000100)の続き。





庚寅、太傅(司馬)孚・大將軍文王・太尉(高)柔・司徒(鄭)沖稽首言「伏見中令、故高貴郷公悖逆不道、自陷大禍、依漢昌邑王罪廢故事、以民禮葬。臣等備位、不能匡救禍亂、式遏姦逆、奉令震悚、肝心悼慄。春秋之義、王者無外、而書『襄王出居于鄭』、不能事母,故絶之于位也。今高貴郷公肆行不軌、幾危社稷、自取傾覆、人神所絶、葬以民禮、誠當舊典。然臣等伏惟殿下仁慈過隆、雖存大義、猶垂哀矜、臣等之心實有不忍、以為可加恩以王禮葬之。」太后從之。
使使持節行中護軍中壘將軍司馬炎北迎常道郷公璜嗣明帝後。
辛卯、羣公奏太后曰「殿下聖徳光隆、寧濟六合、而猶稱令、與藩國同。請自今殿下令書、皆稱詔制、如先代故事。」
癸卯、大將軍固讓相國・晉公・九錫之寵。
太后詔曰「夫有功不隠、周易大義、成人之美、古賢所尚、今聽所執、出表示外、以章公之謙光焉。」
戊申、大將軍文王上言「高貴郷公率將從駕人兵、拔刃鳴金鼓向臣所止。懼兵刃相接、即勑將士不得有所傷害、違令以軍法從事。騎督成倅弟太子舍人濟、横入兵陳傷公、遂至隕命。輒收濟行軍法。臣聞人臣之節、有死無二、事上之義、不敢逃難。前者變故卒至、禍同發機、誠欲委身守死、唯命所裁。然惟本謀乃欲上危皇太后、傾覆宗廟。臣忝當大任、義在安國、懼雖身死、罪責彌重。欲遵伊・周之權、以安社稷之難、即駱驛申勑、不得迫近輦輿、而濟遽入陳間、以致大變。哀怛痛恨、五内摧裂、不知何地可以隕墜?科律大逆無道、父母妻子同産皆斬。濟凶戻悖逆、干國亂紀、罪不容誅。輒勑侍御史收濟家屬、付廷尉、結正其罪。」
太后詔曰「夫五刑之罪、莫大於不孝。夫人有子不孝、尚告治之、此兒豈復成人主邪?吾婦人不達大義、以謂濟不得便為大逆也。然大將軍志意懇切、發言惻愴、故聽如所奏。當班下遠近、使知本末也。」
六月癸丑、詔曰「古者人君之為名字、難犯而易諱。今常道郷公諱字甚難避、其朝臣博議改易、列奏。」
(『三国志』巻四、高貴郷公髦紀)

甘露5年の残り。



「高貴郷公は母親である私を殺めんとする親不孝者であるから、一般人と同じ葬式でいい」という皇太后に、臣下が「流石にそれは可哀想だから王の葬式にしましょう」と言い、それが裁可される。


次いで新たな皇帝を選ぶ。

陳留王諱奐、字景明。武帝孫、燕王宇子也。
(『三国志』巻四、陳留王紀)

常道郷公奐、宇之子、入繼大宗。
(『三国志』巻二十、燕王宇伝)


新たな皇帝になる常道郷公は魏武の子である燕王曹宇の子。烈祖様が死ぬ時に出てきた燕王の事である。



世代としては烈祖様と同世代になる。これでは今の皇太后(烈祖様の皇后)の立つ瀬が無いが、高貴郷公を推した本人だったのだから文句が言えない。




また、皇太后の命令を「令」から「詔制」に変更。



これは実は漢代と同じにしたという事になる。多分、魏になって皇太后の地位下げたのだ。





そして、ここで司馬昭が晋公・相国を辞退。



もしかして高貴郷公は司馬昭がそれらを辞退しようというタイミングを狙おうとしたのか?





最後に、高貴郷公殺害の実行犯成済一族を大逆罪で捕縛し断罪し、この件を落着させる。




だが、皇太后が「礼法は私は素人なのですが」とわざとらしく意見を言っているように、高貴郷公は皇帝扱いしないなら殺害犯を大逆=皇帝殺害犯として扱うのは矛盾しているように思える。



皇帝を殺した事は無かったことにしたい(皇帝は皇帝失格だったことにしたい)が、それでも皇帝殺害の犯人を厳しく追及している姿勢を見せないと周囲が納得しない。そんな無茶な両立のためになされた措置なのだろうか。




やはり、司馬昭らは大変苦しい対応を迫られたという事なのだろう。たぶん。