少年少女合唱団

初、高祖既定天下、過沛、與故人父老相樂、醉酒歡哀、作「風起」之詩、令沛中僮兒百二十人習而歌之。至孝惠時、以沛宮為原廟、皆令歌兒習吹以相和、常以百二十人為員。
文・景之間、禮官肄業而已。
武帝定郊祀之禮、祠太一於甘泉、就乾位也、祭后土於汾陰、澤中方丘也。乃立樂府、采詩夜誦、有趙・代・秦・楚之謳。以李延年為協律都尉、多舉司馬相如等數十人造為詩賦、略論律呂、以合八音之調、作十九章之歌。以正月上辛用事甘泉圜丘、使童男女七十人倶歌、昏祠至明。夜常有神光如流星止集于祠壇、天子自竹宮而望拜、百官侍祠者數百人皆肅然動心焉。
(『漢書』巻二十二、礼楽志)

漢の宮廷における祭祀と少年少女合唱団は切っても切り離せない関係にあるらしい。




漢の高祖劉邦は故郷である沛で自作の詩を地元の幼児百二十人に歌わせた。



そして高祖死後、沛における高祖廟でこの百二十人の少年少女合唱団を使ったようである。





時代が下って武帝の時。



武帝は昨日の記事で紹介したように天を甘泉で、地を河東郡の汾陰で祭ることとしたが、その時の儀礼のための宮廷楽団を組織した。



天を祭る際には児童男女七十人に祭祀のための歌を合唱させたという。




そうしたところ祭壇に神秘的な光が集まるのを皇帝や従官たちが目撃したのだそうな。






児童による合唱には何か霊的に特別な力があると思われていたのだろうか?



その辺はヨーロッパの聖歌隊もそういう側面があったのかなあ・・・?






私事になるが、自分は小中学生の時に音楽の授業で合唱をし、更には授業の枠を超えて全校挙げてのコンクールなども行われていた記憶がある。



なぜ合唱しなければならないのかと当時から不思議に思うと同時に不満すら覚えていたが、もしかしたら母校は(あるいはその上部組織は)古代の祭祀における合唱団を参考にし、我々の合唱によって何か霊的なパワーを得ようとしていたのかもしれない。



二十年以上を経て初めてその仮説に至った。