『漢書』哀帝紀を読んでみよう:その7

その6(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180430/1525014498)の続き。




三年春正月、立廣紱夷王弟廣漢為廣平王。
癸卯、帝太太后所居桂宮正殿火。
三月己酉、丞相(平)當薨。
有星孛于河鼓。
夏六月、立魯頃王子郚郷侯閔為王。
冬十一月壬子、復甘泉泰畤・汾陰后土祠、罷南北郊。
東平王雲・雲后謁・安成恭侯夫人放皆有罪。雲自殺、謁・放棄市。
(『漢書』巻十一、哀帝紀)

建平3年。


哀帝即位、寢疾、博徴方術士、京師諸縣皆有侍祠使者、盡復前世所常興諸神祠官、凡七百餘所、一歳三萬七千祠云。
明年、復令太皇太后詔有司曰「皇帝孝順、奉承聖業、靡有解怠、而久疾未瘳。夙夜唯思、殆繼體之君不宜改作。其復甘泉泰畤・汾陰后土祠如故。」上亦不能親至、遣有司行事而禮祠焉。
(『漢書』巻二十五下、郊祀志下)

甘泉・汾陰の天地の祭祀、また復活。哀帝の病気が良くならないため、らしい。



子煬王雲嗣。哀帝時、無鹽危山土自起覆草、如馳道状、又瓠山石轉立。雲及后謁自之石所祭、治石象瓠山立石、束倍草、并祠之。建平三年、息夫躬・孫寵等共因幸臣董賢告之。
是時、哀帝被疾、多所惡、事下有司、逮王・后謁下獄驗治、言使巫傅恭・婢合歡等祠祭詛祝上、為雲求為天子。雲又與知災異者高尚等指星宿、言上疾必不愈、雲當得天下。石立、宣帝起之表也。有司請誅王、有詔廢徙房陵。雲自殺、謁棄市。立十七年、國除。
(『漢書』巻八十、東平思王宇伝)


諸侯王のひとり、東平王雲が皇帝への呪詛で処分された。宣帝の子の東平王宇の子なので、成帝の従兄弟という事になるはずだ。



領内で石がひとりでに立ち上がるといった怪奇現象が起こったそうで、これは宣帝即位の予兆と同じような現象なので、東平王が今度は自分の番だと思ったという事である。



哀帝がどうやら病気であったらしい事も東平王の野望に火を付けたのだろう。